金猊は生前ニコンの一眼レフカメラを愛用し、作品制作の手掛かりにしたであろう植物の写真を筆頭に寺院や仏像に建造物、ショーウインドーから道行く人や家族スナップ、果てはモデル撮影にまで出掛け、多くの写真を残しました。Wikipediaに掲載されている大阪万博の写真の多くは実は金猊が撮影した写真だったりします。これら雑多な写真をプロジェクターでスクリーンに映写します。金猊の捉えた「昭和」をお楽しみください。
また、写真ということでは金猊本人が撮影したものではないものの、金猊作品が暮らしの中でどのように扱われていたかを伝えられるのも写真であり、それらの写真と実際の作品を並べて展示いたします。屏風と色紙額以外の作品は主に晩年に描いた作品となります。
そして、これらの金猊作品・写真とは別に今年は金猊の長女・桑原美鷹の娘が通った国立音楽大学附属小学校で娘同士を通じて知り合った40年来の友人(ママ友)である守屋光子さんの写真を展示します。
芸工展2023「kingeiCamera - 丸井金猊と守屋光子の写真展」
日時:2023年10月6日㊎〜9日㊊㊗ 13:00〜17:00
会場:丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1f(入場無料・予約不要)
〒110-0001 東京都台東区谷中1-6-3(Google Map)
主催:丸井金猊ラボ∞谷中M類栖(代表:m-louis)
協力:守屋光子
SNS:Facebook、Instagram、LINE、X(Twitter) ハッシュタグは #kingeimarui
1937(昭和12)年生まれ、85歳。国立に40年在住し、現在は町田在住。
中高大と一貫して慶應義塾に学び、大学は経済学部に入学。1899年に設立された慶應義塾大学唯一公認の美術サークル・総合美術団体パレットクラブに所属し、主に油絵を描いていた。
その後、茶道、陶芸に挑戦し、陶芸で作った作品を記録するために写真を撮り始めたところ、写真にも興味が及び、自然写真家の花森俊一氏に師事し、写真展にも出品するようになった。
フィルム時代はミノルタ機を愛用し、デジタルになってからはソニーのコンデジRX100シリーズを使って庭で作っている野菜の写真を主に撮影し、展覧会にも出品。80歳を過ぎた現在も野菜の写真は撮り続けている。
金猊の長女・桑原美鷹とは娘の通った国立音楽大学附属小学校の同級生だったことを通じての友人(ママ友)で、国内だけでなく、インドやエジプトなど海外にも一緒に旅に出掛け、そこでも多くの写真作品を残している。
1909(明治42)年、愛知県一宮市出身。本名は丸井金蔵(まるいきんぞう)。 1928年、東京美術学校日本画科に入学。卒業後は同校研究科所属。21歳(1930年)で国際美術協会主催第一回美術展覧会に出品し入賞首席。第二回展は無鑑査で出品し、近衞文麿氏の買上となる。1935年に愛国生命保険、1937年に東宝劇場の壁画製作。28歳(1938年)で現代美術社主催「第一回現代美術展覧会」に『壁畫に集ふ』出品後、画家としての事蹟が途絶える。1946〜47年東京美術学校講師を経て、38歳(1948年)で県立神奈川工業高校工芸図案科の教諭に赴任し、以降は後進のデザイン教育に尽力する。晩年再び画筆をふるうも1979年69歳で病歿。2008年一宮市博物館で特別展「いまあざやかに 丸井金猊展」開催。 2015年小学館『日本美術全集』第18巻「戦争と美術」の章に『壁畫に集ふ』掲載。
出品者名:朝倉文夫、堀 進二、富田温一郎、長谷川利行、木内 克
(生年順)望月春江、熊谷登久平、大河内信敬、丸井金猊
張替正次、鈴木美江、絹谷幸二、岡本明久
今回は清水町(池之端四丁目)ゆかりの画家大河内信敬、望月春江、丸井金猊らをクローズアップし、上野不忍池の石碑のある長谷川利行、熊谷登久平から絹谷幸二のエピソード話、真島町にありました太平洋美術会会長の堀進一、朝倉彫塑館の朝倉文夫、木内 克らの彫刻家の活躍を紹介していきたいと思います。
10月4日㊌〜15日㊐ 11:30〜18:00
日曜日は16時まで/月曜・火曜休み 初日は14時から
東京都台東区池之端4-23-17(Google Map)
https://www.ikenohata-art.com(企画案内)
井上ひろ子、織田和子、北川亜紀子、小池航
小林操子、酒井洋子、田中みどり、坪内紀子
点灯夫と転轍手、藤井志津子、丸井隆人
村山節子、吉田佳寿美、WATARTARIA
協力:井上義教、藤井アキラ
10月3日㊋〜9日㊊㊗ 11:00〜19:00 最終日17:00まで
ギャラリーTEN
東京都台東区谷中2-4-2(Google Map)
http://galleryten.org/ten/(企画案内)
谷中M類栖の敷地には嘗て張替正次(1914-2003)という洋画家がアトリエを構え、地元では張替先生と呼ばれ親しまれていました。そこで描かれた張替作品と、現在ラボで収蔵している丸井金猊(1909-1979)作品がこの土地を縁に集ふ‥‥今年の秋の芸工展2023ではそんな二人のコラボ展を計画しています。
しかし、展示できる張替さんの作品や情報が少なく、作品貸出のご協力や情報提供を募りたく思っております。作品を貸してくださる方、また、張替さんご自身やこの土地のかつての姿が写っている写真をお持ちの方いらっしゃいましたら、こちらのフォームまでご一報くださいますとありがたく存じます。
芸工展2023「丸井金猊 meets 張替正次」
日時:2023年10月7日㊏〜9日㊊㊗・10月20日㊎〜22日㊐ 13:00〜17:00(日程は予定)
会場:丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1f(入場無料・予約不要)
〒110-0001 東京都台東区谷中1-6-3(Google Map)
主催:丸井金猊ラボ∞谷中M類栖(代表:m-louis)
協力:張替正次氏のご遺族様
池之端画廊、柏わたくし美術館、ギャラリー・ファムファタール、前田輪業
SNS:Facebook、Instagram、LINE、Twitter ハッシュタグは #kingeimarui
三鷹に住んでいた丸井金猊の遺族が都市計画の都合で三鷹を離れざるを得なくなったとき、金猊の作品を定期的に気軽に展示できる転居先として選んだのが毎年秋に芸工展が開催され、まちを散策する人たちを多く見掛ける谷中でした。言問通りを歩いていたら「売出し中」の幟の立った空き地が出て来てすんなりこの場所に決まり、設計段階で近隣に挨拶する際に展示スペースとしての利用を考えている旨伝えたら、元々ここには張替さんという画家が住んでいたという話を聞かされ、その特徴的な名前が頭の片隅に残っていました。
それから18年後の2021年、Instagramでギャラリー・ファムファタールさんが池之端画廊で「大叔父であります張替正次の絵画が久々に展示されます」と投稿されているのを見掛け、初めて張替さんの作品を観に行きました。そこで観た『誕生』というタイトルの、虫や鳥や魚のようにも機械や人のようにも見える三足の奇怪な生命体の描かれた絵は、暗いトーンながらもどこかユーモラスに感じられ、この作品がまさに誕生した場所に戻れたら小躍りするような足の動きを見せるのではないか。さらには金猊の『鷺圖』という鷺の足が複雑に入り組んだ作品と並べたら、タイプの異なる作品同士ながら相互に響き合って、この場所で共鳴し出すのではないか。そのような妄想に駆り立てられました。
ネットで調べると(第15回 栄光のOB 張替正次|国展/絵画部会員 安富信也)、1914年生まれの張替氏は24歳で鳥海青児に師事とあり、1938年頃から画家の道を歩み出したのかと思いますが、1909年生まれの金猊は1938年作『壁畫に集ふ』を最後に28歳で画業から離れていて、1938年が画家としての二人の節目の年と言えます。また、張替氏が逝去された2003年に谷中M類栖の家づくりは始まっており、画家としての人生と作品が創られ置かれる場所となった土地のバトンタッチに二人の縁を感じずにはいられません。その縁を具現化し、張替氏の作品が生み出された場所に帰還できる機会として芸工展2023「丸井金猊 meets 張替正次」を開催します。
1914(大正3)年、東京深川生まれ。本名は張替正次(はりかえまさつぐ)。
20歳の頃、谷中に下宿して額縁業に従事し、24歳(1938年)で洋画家の鳥海青児に師事。26歳から太平洋美術学校で学び、33歳で国展初入選。35歳で第一回読売アンデパンダン展出品(以降毎年出品)。39歳で絵画部会友(準会員)となる。
40歳(1954年)で第一回個展を開催後、精力的に個展を続け、絵画のみならず版画・陶芸などでも力強い造形力を発揮する。66歳(1980年)と87歳(2002年)の時に紺綬褒章受章。2003年88歳で永眠。2018年スペイン・ソリア「現代画オリエンタル」展出品。2023年6月23日〜8月6日 信州高遠美術館「没後20年記念 張替正次展」開催。
1909(明治42)年、愛知県一宮市出身。本名は丸井金蔵(まるいきんぞう)。 1928年、東京美術学校日本画科に入学。卒業後は同校研究科所属。21歳(1930年)で国際美術協会主催第一回美術展覧会に出品し入賞首席。第二回展は無鑑査で出品し、近衞文麿氏の買上となる。1935年に愛国生命保険、1937年に東宝劇場の壁画製作。28歳(1938年)で現代美術社主催「第一回現代美術展覧会」に『壁畫に集ふ』出品後、画家としての事蹟が途絶える。1946〜47年東京美術学校講師を経て、38歳(1948年)で県立神奈川工業高校工芸図案科の教諭に赴任し、以降は後進のデザイン教育に尽力する。晩年再び画筆をふるうも1979年69歳で病歿。2008年一宮市博物館で特別展「いまあざやかに 丸井金猊展」開催。 2015年小学館『日本美術全集』第18巻「戦争と美術」の章に『壁畫に集ふ』掲載。
]]> 張替さん情報求ム。ミュージアムやミュージックの語源とされるミューズ(古代ギリシャ語のムーサ)はギリシャ神話に登場する詩・音楽・学問・芸術などあらゆる知的活動を司る女神たちで、特に大作の作画主題に女性群像を描く傾向の強かった金猊にとって女性美を模索することは、ミューズを司る諸学芸ジャンルを探究することと符合するようにも思われます。
実際、東京美術学校の卒業制作作品『菊花讃頌』と集大成となった『壁畫に集ふ』には多くの共通要素が偏在し、その中心にミューズと覚しき婦女子たちが立ち並びます。残念ながら『菊花讃頌』は実物が所在不明でモノクロ絵葉書を拡大印刷しての展示となりますが、本展では『菊花讃頌』から『壁畫に集ふ』まで金猊が描いた女性像をミューズたちと見立て、ギリシャ神話の女神たちを参照しながら展示します。
芸工展2022「金猊∞ミューズ」
日時:2022年10月1日㊏〜3日㊊・21日㊎〜23日㊐ 13:00〜17:00
※ヤクルト日本シリーズ出場の場合、10月22日㊏ 23日㊐は16:00まで
会場:丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1f(入場無料・予約不要)
〒110-0001 東京都台東区谷中1-6-3(Google Map)
主催:丸井金猊ラボ∞谷中M類栖(代表:m-louis)
SNS:Facebook、Instagram、LINE、Twitter ハッシュタグは #kingeimarui
Peatix:https://kingeimuse.peatix.com/
尚、今回のミューズというテーマは、今年の七夕にZOCからMETAMUSEへと改名したアイドルグループの新グループ名から着想を得ています。「meta-」という接頭辞には「後に、変化して、超越した、超、共に」といった意味があり、全楽曲を作詞作曲し、プロデューサー兼メンバーでもあるシンガーソングライター(超歌手)の大森靖子さんは「超が好き!」とも言われているので「超女神」というニュアンスでも捉えられるかと思います。
新グループ名になって各メンバーにはギリシャ神話の女神設定もなされ(ミューズの女神ではないけれど)、それをモチーフとしてFuka AMNIさんが衣装デザインを手掛けられました。その衣装は金猊∞ミューズの衣装ともどことなくオーバーラップして見えるところもあり、会場ではその新衣装も参照しながらどの女神が金猊∞ミューズに相当するか、勝手な想像で女神遊びをしてギリシャ神話を学ぶ足掛かりとすると共に金猊作品を観る新たな視点が発見出来たらと思っております。BGMにはMETAMUSEおよび大森靖子さんの創作楽曲を流します。ハッとするような刺激的なフレーズが刺さったら帰宅後にぜひ検索を♪
この度、METAMUSE 新衣装を担当させていただきました!
— Fuka AMNI (@fuk_yamyam) August 7, 2022
本日TIFのステージで6人フルのお披露目となりました。
ひとりひとりに固有の女神の象徴となるモチーフと、心臓のかたちにアレンジしたロゴ刺繍を施しました。
色々発見してくれると嬉しいな。
たくさんの人に見ていただけますように♡ pic.twitter.com/t4S7zzoYgm
9月は独自開催、10月は地元のまちかど展覧会「芸工展2021」に参加しての開催となります。
☞朝日新聞:幻の特別展を「再現」 法隆寺金堂壁画複製写真など(柏木友紀 2020年11月13日)
☞JIBUNマガジン:まちかどへ、芸術の旅①/上野の博物館と谷中を往復し体感「丸井金猊⇔法隆寺と聖林寺」展(稲葉洋子 2021年12月3日)
コロナの状況如何によっては開催中止の可能性もありますが、現時点では東京国立博物館が開催していることと、東京⇄大阪間の新幹線移動が可能であることを条件に開催の予定でおります。
マスク着用・検温・入場時の除菌・換気等、コロナ対策も行って参りますので、ご協力よろしくお願いいたします。
東京国立博物館 特別展「聖徳太子と法隆寺」「国宝 聖林寺十一面観音」を拝観して
芸工展2021「丸井金猊⇄法隆寺と聖林寺」日時:2021年9月10日㊎〜13日㊊
10月1日㊏〜4日㊊・29日㊎〜31日㊐ 13:00〜17:00
1時間一組(4名様)迄の事前予約制 ☞予約状況確認・予約お申し込み
会場:丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1f(入場無料)
〒110-0001 東京都台東区谷中1-6-3(Google Map)
主催:丸井金猊ラボ∞谷中M類栖(代表:m-louis ←金猊の孫の丸井隆人)
情報提供・協力:宝塚市立中央図書館
印刷協力:remo [NPO法人 記録と表現とメディアのための組織]
SNS:Facebook、Instagram、LINE、Twitter ハッシュタグは #kingeimarui
東博の東洋館内にあるミュージアムシアターではVR作品『法隆寺 国宝 金堂―聖徳太子のこころ』を東博入館料(特別展をご覧になる場合は特別展料)とは別に600円でご覧になることが出来ます。これがバーチャルリアリティの世界ではありますが、法隆寺の現地でも立ち入ることの出来ない法隆寺金堂内部の視点に立つことが出来、大変オススメです。これも是非谷中M類栖で観てからご覧になるとリアリティが増すと共に、谷中M類栖の展示配置の意味がご理解できるかと思います。これも期間が10月10日㊐までで10月後半の展示期には終了していますが、是非併せてご覧ください。
・観音圖* 1936(昭和11)年頃 紙本彩色, 四曲屏風 226.0×332.0cm(谷中M類栖 所蔵)
・聖徳太子二童子像* 1928(昭和3)年 絹本彩色, 額 50.8×70.0cm(個人蔵・江南市)
・唐本御影写 聖徳太子二童子像* 1928(昭和3)年 絹本彩色, 額 50.8×38.5cm(同上)
・馬上太子圖* 1928~35(昭和3~10)年頃 絹本彩色, 軸 52.3×38.5cm(個人蔵・一宮市)
・法隆寺金堂壁画12壁のコロタイプ印刷複製プリント(宝塚市立中央図書館 所蔵)
*マークはタイトル不詳で、主催者が仮で設定したものです。
・東京国立博物館 特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」図録
・同展特別販売「国宝・百済観音フィギュア」(海洋堂 制作)
・奈良国立博物館「法隆寺金堂壁画写真ガラス原板─文化財写真の軌跡─」図録
・日本美術全集2 法隆寺と奈良の寺院(小学館 出版)
・法隆寺監修・朝日新聞社編「法隆寺再現壁画 大型本」
・朝日新聞社「法隆寺 壁画と金堂」
・彩壺堂「法隆寺幻想展」図録
・アサヒグラフ増刊1968年4月15日「法隆寺金堂 壁画再現」
・再現壁画 模写画家13人の全集もしくは展覧会図録(近藤千尋だけ見つからず)
・なぜか家にある法隆寺の瓦 ほか書籍多数
金堂壁画の複製写真は、昭和10年に京都の美術印刷会社・便利堂がガラス乾板に原寸大撮影した写真のコロタイプ印刷の複製品のデータプリントで、複製品自体は国内外25箇所の博物館、図書館、大学などに頒布されました。宝塚市立中央図書館もその所蔵先の一つで、2014年に同館で開催された「宝塚歌劇のあゆみ」展に金猊が東宝劇場の壁画に描いた『薫風』の下絵を出品したご縁で、今回その複製写真をお借りできることになりました。
法隆寺に現在設置されている再現壁画はこの写真を下図として安田靫彦や前田青邨ら当時の精鋭画家によって模写制作が行われており、実物を実見できない画家の目を補完する重要な二次資料となりました。しかし、当時の画家の手記を読むと写真に写った壁画の剥落や変色をどう捉えるか、将来の経年変化をどう想定するか、線描と色彩のどちらを重視するかなどで考え方にも差異があり、現物に忠実な写生と言ってもそこに画家の想像力に委ねざるを得ない面があることが伺えます。言い換えるなら模写から完全にそれを描く画家の作家性を消し去ることはできません。
丸井金猊ラボ∞谷中M類栖では、その複製写真を1号壁〜12号壁まで全12点、6号壁に関しては実寸サイズで出力し、他は縮小サイズにて、なるべく法隆寺と東西南北において同位置になるように展示します。また、各壁画の下にはキャプション型ファイルを配備し、壁画概要、焼損壁画、コロタイプ印刷、桜井香雲模写、鈴木空如模写、昭和の模写、再現壁画模写画像を見せた後にその再現壁画を担当した画家の代表作、プロフィール、そして再現壁画が完成した際に書かれた担当画家全員の報告文書を全文掲載し、その中から2箇所気になるテキストをピックアップして大きな字で読みやすいようにしました。
これによって再現画家たちの模写に対するスタンスとそれが各々の作品にどのように反映しているかをその場で確認できるのではないかと思っています。それを補完するために、各画家の全集・図録も用意し(近藤千尋を除く)、キャプション型ファイルの下に置きました。
※著作権の都合で、法隆寺金堂壁画の複写画像はモザイクを掛けています。
※東側の壁面は図面に起こしにくかったので昨年の芸工展展示写真に嵌め込みました。
一方、23年ぶりに東京で公開されることになった像高約210cmの百済観音像の実物は、出所不明の謎多き仏像で、百済観音という名前が付いたのも大正時代に入ってからと言われています(それまでは虚空蔵菩薩と呼ばれていた)。
その百済観音を昭和11年頃に金猊は高さ226cm、横幅332cmの屏風(仮題「観音圖」)の中に描きました。
但し、金猊の観音は法隆寺の百済観音が右手を前に差し出し掌を天に向ける与願印の印相をしているのに対し、腕を上にあげ、中指を折るようにして蓮華を摘まんでいます。左手も実物は親指と中指で水瓶の口を摘まんでいるのに、何も持たずに親指と中指を合わせた中品中性の説法印の印相をしています。他にも宝冠や胸飾、腕釧を現物は錆びているにもかかわらず、新品の黄金色に仕立て上げました。そして百済観音を挟んだ人物の衣装にも他の観音像の衣相からの引用と思われるパーツが多数あり、金猊は百済観音の模写から想像を広げ、遊び心一杯の世界観を創造しています。
百済観音に関してもキャプション型ファイルを配備し、一宮市博物館「いまあざやかに 丸井金猊展」図録に寄稿された美術史研究者・山本陽子さんの「丸井金猊と古美術の学習」から観音圖に関するテキストを抜粋し、大きな字で関連図版を交えて紹介しています。
丸井金猊「写と想像⇄創造」展では、東博での展示と同一の対象を扱いながら複数の「写」を通じて見え隠れする「想像⇄創造」の間の、模写画家のみならず、それをみる/みてきた人々の反復に目を傾けて行きます。本来ならば特別展をみてからご覧いただきたかったのですが、その叶わなかった無念への鎮魂(レクイエム)と関係者の皆様への感謝を込めて祈りを捧げられるような場にできればと考えています。
朝日新聞:幻の特別展を「再現」 法隆寺金堂壁画複製写真など(柏木友紀 2020年11月13日)
こちらのサイトやSNS等でも開催日の告知はする予定ですが、丸井金猊公式LINE にご登録いただき、開催日程に関する通知をお待ちいただくのが一番確実かと思います。
ご参加希望の方は右記QRコードより公式LINEの友だち追加をよろしくお願いいたします。
次の開催は 2020年11月14日㊏〜16日㊊ の予定です。
尚、新型コロナウイルス感染防止の対策として、これまでは一時間一組様(最大4名迄)の事前予約制でしたが、今回は一時間二組様(二組合わせて最大4名迄)として申し込み人数を見ながら予約を受け付ける形を取りたいと考えています。引き続き、予約状況のご確認とご予約は下記リンク先よりよろしくお願いいたします。
東京国立博物館 幻の特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」に謝して
宝塚市立中央図書館×丸井金猊「写と想像⇄創造」展日時:不定期開催(丸井金猊公式LINEで通知)
2020年11月14日㊏〜16日㊊ 13:00〜17:00(次回日程)
1時間2組迄の事前予約制 ☞予約状況・予約お申し込み
会場:丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1f(入場無料)
〒110-0001 東京都台東区谷中1-6-3(Google Map)
主催:丸井金猊ラボ∞谷中M類栖(代表:m-louis ←金猊の孫の丸井隆人)
情報提供・協力:宝塚市立中央図書館
印刷協力:remo [NPO法人 記録と表現とメディアのための組織]
SNS:Facebook、Instagram、LINE、Twitter ハッシュタグは #kingeimarui
チラシ:PDF不定期開催版(1.6MB)
2020年3月13日㊎~5月10日㊐に東京国立博物館で開催予定ながら新型コロナウイルス感染の影響で中止となった特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」では、昭和24年の金堂火災により焼損した壁画の火災前・後の模写、および法隆寺大宝蔵院に安置された観音菩薩立像「百済観音」の実物が展示される予定でした。☞報道陣のみ公開
その展示に触発され、丸井金猊ラボ∞谷中M類栖では宝塚市立中央図書館にお借りしたコロタイプ印刷による金堂壁画の複製プリントをなるべく法隆寺金堂内と同じ方位に12壁画すべて配置し(6号壁は実寸サイズ展示)、百済観音を画中画として模写しながらもデフォルメした金猊のタイトル不詳屏風「観音圖*」も展示し、文字通り金堂壁画と百済観音が共存する空間を構築いたします。
・観音圖* 1936(昭和11)年頃 紙本彩色, 四曲屏風 226.0×332.0cm(谷中M類栖 所蔵)
・聖徳太子二童子像* 1928(昭和3)年 絹本彩色, 額 50.8×70.0cm(個人蔵・江南市)
・唐本御影写 聖徳太子二童子像* 1928(昭和3)年 絹本彩色, 額 50.8×38.5cm(同上)
・馬上太子圖* 1928~35(昭和3~10)年頃 絹本彩色, 軸 52.3×38.5cm(個人蔵・一宮市)
・法隆寺金堂壁画12壁のコロタイプ印刷複製プリント(宝塚市立中央図書館 所蔵)
*マークはタイトル不詳で、主催者が仮で設定したものです。
・東京国立博物館 特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」図録
・同展特別販売「国宝・百済観音フィギュア」(海洋堂 制作)
・奈良国立博物館「法隆寺金堂壁画写真ガラス原板─文化財写真の軌跡─」図録
・日本美術全集2 法隆寺と奈良の寺院(小学館 出版)
・法隆寺監修・朝日新聞社編「法隆寺再現壁画 大型本」
・朝日新聞社「法隆寺 壁画と金堂」
・彩壺堂「法隆寺幻想展」図録
・アサヒグラフ増刊1968年4月15日「法隆寺金堂 壁画再現」
・再現壁画 模写画家13人の全集もしくは展覧会図録(近藤千尋だけ見つからず)
・なぜか家にある法隆寺の瓦 ほか書籍多数
金堂壁画の複製写真は、昭和10年に京都の美術印刷会社・便利堂がガラス乾板に原寸大撮影した写真のコロタイプ印刷の複製品のデータプリントで、複製品自体は国内外25箇所の博物館、図書館、大学などに頒布されました。宝塚市立中央図書館もその所蔵先の一つで、2014年に同館で開催された「宝塚歌劇のあゆみ」展に金猊が東宝劇場の壁画に描いた『薫風』の下絵を出品したご縁で、今回その複製写真をお借りできることになりました。
法隆寺に現在設置されている再現壁画はこの写真を下図として安田靫彦や前田青邨ら当時の精鋭画家によって模写制作が行われており、実物を実見できない画家の目を補完する重要な二次資料となりました。しかし、当時の画家の手記を読むと写真に写った壁画の剥落や変色をどう捉えるか、将来の経年変化をどう想定するか、線描と色彩のどちらを重視するかなどで考え方にも差異があり、現物に忠実な写生と言ってもそこに画家の想像力に委ねざるを得ない面があることが伺えます。言い換えるなら模写から完全にそれを描く画家の作家性を消し去ることはできません。
丸井金猊ラボ∞谷中M類栖では、その複製写真を1号壁〜12号壁まで全12点、6号壁に関しては実寸サイズで出力し、他は縮小サイズにて、なるべく法隆寺と東西南北において同位置になるように展示します。また、各壁画の下にはキャプション型ファイルを配備し、壁画概要、焼損壁画、コロタイプ印刷、桜井香雲模写、鈴木空如模写、昭和の模写、再現壁画模写画像を見せた後にその再現壁画を担当した画家の代表作、プロフィール、そして再現壁画が完成した際に書かれた担当画家全員の報告文書を全文掲載し、その中から2箇所気になるテキストをピックアップして大きな字で読みやすいようにしました。
これによって再現画家たちの模写に対するスタンスとそれが各々の作品にどのように反映しているかをその場で確認できるのではないかと思っています。それを補完するために、各画家の全集・図録も用意し(近藤千尋を除く)、キャプション型ファイルの下に置きました。
※著作権の都合で、法隆寺金堂壁画の複写画像はモザイクを掛けています。
※東側の壁面は図面に起こしにくかったので昨年の芸工展展示写真に嵌め込みました。
一方、23年ぶりに東京で公開されることになった像高約210cmの百済観音像の実物は、出所不明の謎多き仏像で、百済観音という名前が付いたのも大正時代に入ってからと言われています(それまでは虚空蔵菩薩と呼ばれていた)。
その百済観音を昭和11年頃に金猊は高さ226cm、横幅332cmの屏風(仮題「観音圖」)の中に描きました。
但し、金猊の観音は法隆寺の百済観音が右手を前に差し出し掌を天に向ける与願印の印相をしているのに対し、腕を上にあげ、中指を折るようにして蓮華を摘まんでいます。左手も実物は親指と中指で水瓶の口を摘まんでいるのに、何も持たずに親指と中指を合わせた中品中性の説法印の印相をしています。他にも宝冠や胸飾、腕釧を現物は錆びているにもかかわらず、新品の黄金色に仕立て上げました。そして百済観音を挟んだ人物の衣装にも他の観音像の衣相からの引用と思われるパーツが多数あり、金猊は百済観音の模写から想像を広げ、遊び心一杯の世界観を創造しています。
百済観音に関してもキャプション型ファイルを配備し、一宮市博物館「いまあざやかに 丸井金猊展」図録に寄稿された美術史研究者・山本陽子さんの「丸井金猊と古美術の学習」から観音圖に関するテキストを抜粋し、大きな字で関連図版を交えて紹介しています。
丸井金猊「写と想像⇄創造」展では、東博での展示と同一の対象を扱いながら複数の「写」を通じて見え隠れする「想像⇄創造」の間の、模写画家のみならず、それをみる/みてきた人々の反復に目を傾けて行きます。本来ならば特別展をみてからご覧いただきたかったのですが、その叶わなかった無念への鎮魂(レクイエム)と関係者の皆様への感謝を込めて祈りを捧げられるような場にできればと考えています。
コロナ禍で中止となった東京国立博物館特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」に着想を得て当初5月1日㊎~6日㊌㊗に予定していたものの延期となり、9月19日㊏〜22日㊋㊗・10月2日㊎~5日㊊に開催しておりました丸井金猊「写と想像⇄創造」展は無事終了いたしました。
会期中御足を運んでくださいました皆様、大変ありがとうございました。
新型コロナウイルス感染防止の対策として一時間一組様(最大4名迄)の事前予約制という形を取っておりましたが、多くのお客様が1時間〜2時間半とご滞在され、それでも時間が足りないと言ってくださり、ある意味今回はフリーでのご入場ではなく、予約制のスタイルにしていて良かったと思っています。
ただ、予約制ではどうしてもご覧くださるお客様の数に限りがあり、しばらくは展示を完全撤去せず、今後【不定期開催】という形で展示を継続することにいたしました。
こちらのサイトや各種SNS等でも開催日の告知はする予定ですが、丸井金猊公式LINE にご登録いただき、開催日程に関する通知をお待ちいただくのが一番確実かと思います。
ご参加希望の方は右記QRコードより公式LINEの友だち追加をよろしくお願いいたします。
尚、開催に関しては大阪在住の m-louis が東京に行ったときが開催期間となります。東京に用事があるときは可能な限り開催出来るようにし、用事がないときでも交通費(往復約3万円程度)が工面できれば開催したいのですが、その確保が容易ではなく、クラウドファンディングなどで交通費を集める方法を検討中です。何か妙案がございましたらアドバイスください。☞お問い合わせ
]]>変更前日程の記載されたチラシとなりますが、
ご希望の方には無料でお送りいたします。
お問い合わせフォームより希望枚数と
氏名・住所をご記入の上、お申し込みください。
「第12号壁 十一面観音菩薩像」を担当した前田班の前田青邨、近藤千尋のうち、本稿では
近藤千尋氏のメッセージと作品を紹介いたします。
前田青邨氏のメッセージ+作品は「第10号壁 薬師浄土図」にて。
12号壁は焼損以前はたいへん黒い壁であった。黒
仕事が進むにつれて、頼りにしていた原寸大の写真があまり頼りにならないことに気がついた。この原寸写真も黒徽に災いされて、細部になると判然としないところが多い。肝心の十一面、
蓮華をお持ちになっている左の御手は原寸写真では極端にいえば、どれが御指でどれが空間なのかわからないほどであったが、焼損壁画にはアウトラインというかその部分の面としての彩色が残っているので、それを頼りにして形をとらえていった。お持ちになっている蓮華もまたしかりである。他にも重要な個所で、このような思いをしたことがたびたびあった。
十一面様は半月形の宝冠をおつけになっていて、その宝冠が美しい
火熱による顔料の変色はかなりひどいもので、緑青は黒く変色している。お腰のあたりにおつけになっている紐というかヒレのようなものの格子模様も焼損後は変色して非常にハッキリしているが、以前はそうではなかったので、それは淡い調子の緑青で描き上げた。
台座蓮の華文も緑青、丹、朱土など変色と剥落がひどくて残念ながら元の姿を想像することもできない。
壁画再現の仕事で、細部を追究してゆく行程では、すべて描き得るものを描くことができて、それから千有余年の古色をつけることになったが、この仕事はあまり困難はなかった。ただ、いつのころか汚された墨汁の跡などは描き込まなかった。
縦311.6cm × 横(上幅) 158.7cm (中幅) 153.1cm (下幅) 152.5cm
岩上の蓮華座に頭光と身光を負った十一面観音が右手は垂下して聖索の端をつまみ、左手に長茎の蓮華を執って正面向きに侍立する。頭部には各化仏をつけた菩薩面9と如来面1を配し本面と合わせて11面の観音像で、こうした雑部密教像はわが国ではもっとも早い例。下方には岩や土坡を描き、対面の聖観音(第7号)ともども観音の住処である南海普陀落山の気色を表す。
西壁の北端。8つの小壁に描かれた菩薩像のうちでは唯一、真正面向きに立つ。向かい合う位置にある7号壁の観音菩薩像と対をなす。
法隆寺金堂の東壁北側に位置する第12号壁は、スペースの都合で方位が異なりますが、丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1f北壁中央下位置右側に110×56cmの約36%サイズに縮小したプリント紙を壁面に張り付けました。
※著作権の都合で、法隆寺金堂壁画の複写画像はモザイクを掛けています。
仕事が進むにつれて、頼りにしていた原寸大の写真が
あまり頼りにならないことに気がついた。
この原寸写真も黒徽に災いされて、細部になると判然としないところが多い。
肝心の十一面、
幸い一部分の赤外線写真があったので、
それと焼損壁画を拝みに行くことで仕事を進めて行った。
十一面様は半月形の宝冠をおつけになっていて、
その宝冠が美しい
焼損壁画を拝見しても赤外線写真を見てもよくわからない。
これは仕上げ近くまで何となく曖昧な形しか描くことが出来なかったが、
田中一松氏蔵の焼損直後に写された写真を拝見することができて、
それには忍冬唐草がよく写っていてたいへん参考になった。
]]>序 法隆寺金堂壁画の「写と想像⇄創造」
第1号壁 釈迦浄土図・・・・・吉岡堅二(吉岡班)
第2号壁 菩薩半跏像・・・・・羽石光志(安田班)
第3号壁 観音菩薩像・・・・・平山郁夫(前田班)
第4号壁 勢至菩薩像・・・・・岩橋英遠(安田班)
第5号壁 菩薩半跏像・・・・・稗田一穂 吉岡堅二 麻田鷹司(吉岡班)
第6号壁 阿弥陀浄土図・・・・安田靫彦 吉田善彦 羽石光志(安田班)・同壁部分紹介
第7号壁 聖観音菩薩像・・・・稗田一穂 麻田鷹司(吉岡班)
第8号壁 文殊菩薩像・・・・・野島青茲(橋本班)
第9号壁 弥勒浄土図・・・・・橋本明治(橋本班)
第10号壁 薬師浄土図・・・・・前田青邨 守屋多々志(前田班)・同壁部分紹介
第11号壁 普賢菩薩像・・・・・大山忠作(橋本班)
第12号壁 十一面観音菩薩像・・前田青邨 近藤千尋(前田班)
明治36年5月京都市下京区室町の本願寺近くで法衣店の子として生まれる。本名義太郎。京都市立絵画専門学校に学ぶ。卒業後前田青邨に師事して日本美術院に出品する。その後、院展を中心として作画生活に入る。
代表作に《音羽山》《吉野曼荼羅》があり、白寿賞などの受賞歴がある。
模写歴は京都絵専時代より尾形光琳の《鹿図》を模写してその天分を発揮、法隆寺の壁画模写にも昭和18年から参加している。戦後は醍醐寺五重塔壁画模写にも従事、42年の金堂壁画再現模写事業に際しては前田班の一員として12号壁を担当した。
翌43年11月、金堂壁画再現記念法隆寺幻想展(彩壺堂)に十一面観音像を出品する。48年には再び師青邨の勧めで高松塚古墳壁画模写を引き受ける。その後も模写事業は長い画業の核となった。
制作面では昭和55年第65回院展に無鑑査として《燈》を出品している。平成7年6月14日心筋梗塞のため京都の自宅で亡くなる。
]]>翌年3月の仕事開始まで心の準備やら、身辺の整理に意を用いた。もちろんそれ以後の依頼画は、事情を申上げ、了解をいただいて全部お断りした。かくして着手の日を待つ態勢はととのった。
3月1日、まず、本尊の部分の仮張を前にして仕事にとりかかった。心の用意は万全できてはいたつもりだったが、いざ、最初の筆を下ろす段になると異様な緊張感で身体が堅くなるのをどうすることもできなかった。仕事を手伝ってもらうことになった岡田光弘、室井
私の担当する11号壁は、本尊が
第1日目は夢中であった。終っての仕事を見ると、仮張の3カ所にほんの僅か方寸の黒ずんだ不思議な地図のようなものが浮かび上がった。それは大海にただよう破船のようにも見え、これからの難航を暗示するかのようでもあった。筆を下ろしてみて改めて仕事の困難さを痛感し、その夜はまんじりともしなかった。
2日、3日、1週間と時がたつにつれて、徐々に緊張感もほぐれ、お互いの意見の交換もスムーズにできるようになり、仕事の経過の目安も立つようになった。一日一日と、それは、本当に蚕が桑の葉を食むが如き遅々たる歩みではあるが、不思議な地図が日時の経過とともにだんだんと拡がってゆく。最初は小さな島のようであったものが、半島状となり、やがて大陸へと移行してゆく。このころになるとすっかり調子にもなれ、仕事の中にもある楽しさが湧き、こわばっていた皆の顔も自然にほぐれてきた。私はいよいよ本尊の彩色に入った。お顔の部分になるとさすがにまた違った緊張感が去来する。一筆一筆を何かに祈る思いで筆を進めてゆく。それでも3カ月近くになるころには、どうにか一応の調子は整った。
その間再度にわたって主任橋本明治先生の来駕をいただき、ご指示を受けた。この11号壁は、以前の模写の時、先生が直々に描かれた壁画なので、その指示はまことに的確で、安心して仕事のできたのはまことにありがたいことであった。途中苦心したところといえば、各壁共通のことではあろうが、古色をどのようにして出すかということであった。前にも申上げた通り11号壁は全体が黒ずんだ調子なのでなおさらであった。他の壁面との調和という点も考慮に入れ調子をどの程度にとどめるかということには特に意を用いた。このことは終始一貫して苦心の中核となった。その他、部分的には頭髪、衣に見られる青黒い部分、下塗にはどんな色を置くかということ。総じて明るめの色を塗り、その上から順次古色をつける方法をとったが、また逆に、天蓋や象の部分など、 一度黒くした上に白で調子を整える方法をとったりもした。
このようにして各部分が次々に進められていった。暑かった夏も仕事は休みなく続けられ、そろそろ秋風も立ち始めるころになって、全体のひととおりの配色は終り、いよいよ仕上げの段階に入った。年明けての最後の総仕上げには一段と気が入り、2月末にようやく完成を見たわけである。過去1年を振返ってみれば万感こもごもであるが、まず感じられることは、千載一遇のこの大きな仕事に従事できたという画家としての充足感と、最初のひと塗りから最後の一点まで終始協力してくれた、岡田光弘、室井東志生両氏への感謝とである。
縦312.4cm × 横(上幅) 160.6cm (中幅) 154.7cm (下幅) 156.0cm
法隆寺金堂壁画 第11号壁 普賢菩薩像
㊧再現壁画 昭和42〜43年(1967-68年) 大山忠作(橋本班)
㊨昭和15〜26年(1940-51年)頃 橋本明治 名古谷謙一(橋本班)
普賢菩薩は『法華経・勧発品』に法華経行者を守護するため東方浄妙国土より六牙の白象に騎乗し来儀すると説く尊で、本図は経説の通り、象は蓮華を踏み、向かって右(東)から左(西)へゆっくり歩を進める。
火焔宝珠を付けた天蓋は風をふくんで後方になびき、その形は8号文殊菩薩のそれに類似し、また構図も8号と向き合うように描かれ、釈迦如来の両脇侍としての配置の工夫がある。なお、両掌を赤く塗るのはアジャンターの仏菩薩や飛天図に類例があり、関心がもたれる。
北面の東端。象の上の蓮華座に向かって左を向いて坐す。図像的特色(象の上に乗る)から、普賢菩薩像であるとわかる。8号壁の文殊菩薩像と対をなす。
法隆寺金堂の北壁東側に位置する第11号壁は、丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1f北壁中央下位置中央に110×56cmの約36%サイズに縮小したプリント紙を壁面に張り付けました。本来であれば対をなす8号壁と9号・10号壁を挟んだ位置となりますが、ここでは隣合う形となりました。
※著作権の都合で、法隆寺金堂壁画の複写画像はモザイクを掛けています。
私の担当する11号壁は、
本尊が普賢菩薩で、金堂の東北の隅に当る小壁。
この場所で往時、護摩が焚かれていたともいわれ、
そのせいか壁全体がくろずんでおり、
他の壁面のように白く剥落した部分が割合少ないので、
まず基調になる黒い部分の塗り起しから始めることにした。
私はいよいよ本尊の彩色に入った。
お顔の部分になるとさすがにまた違った緊張感が去来する。
一筆一筆を何かに祈る思いで筆を進めてゆく。
]]>序 法隆寺金堂壁画の「写と想像⇄創造」
第1号壁 釈迦浄土図・・・・・吉岡堅二(吉岡班)
第2号壁 菩薩半跏像・・・・・羽石光志(安田班)
第3号壁 観音菩薩像・・・・・平山郁夫(前田班)
第4号壁 勢至菩薩像・・・・・岩橋英遠(安田班)
第5号壁 菩薩半跏像・・・・・稗田一穂 吉岡堅二 麻田鷹司(吉岡班)
第6号壁 阿弥陀浄土図・・・・安田靫彦 吉田善彦 羽石光志(安田班)・同壁部分紹介
第7号壁 聖観音菩薩像・・・・稗田一穂 麻田鷹司(吉岡班)
第8号壁 文殊菩薩像・・・・・野島青茲(橋本班)
第9号壁 弥勒浄土図・・・・・橋本明治(橋本班)
第10号壁 薬師浄土図・・・・・前田青邨 守屋多々志(前田班)・同壁部分紹介
第11号壁 普賢菩薩像・・・・・大山忠作(橋本班)
第12号壁 十一面観音菩薩像・・前田青邨 近藤千尋(前田班)
大正11年5月福島県安達郡二本松に生まれる。
昭和15年東京美術学校日本画科に入学、 18年学徒動員のため繰り上げ卒業となる。戦後の21年復員後、山口蓬春に師事し、同年第2回日展に《Ο先生》が初入選し白寿賞を受賞。以後、毎年日展入選を果たし、27年《裸婦》、30年《海浜》が特選となり、25年には日展審査員となる。
また、32年より一宋社に参加し、高山辰雄、加藤東一らとともに研鑽を積む。38年麻田鷹司、横山操、加藤東一らと武蔵野会を結成。この頃、洋画的感覚の重厚な画風の花鳥画を多く発表する。
昭和22年法隆寺金堂壁画模写に橋本班の一員として参加。42年法隆寺金堂壁画再現模写にも再び従事。前回は9号壁、今回は11号壁の普賢菩薩を担当する。45年日展評議員となり、50年日展理事となる。
53年から成田山新勝寺光輪閣襖絵の制作を行い、55年に第一期、59年に第二期が完成。61年日本芸術院会員となる。平成4年第12代日展理事長に就任。
代表作に、第11回新日展で文部大臣賞を受賞した《岡潔先生像》(昭和43年)、日本芸術院賞受賞の《五百羅漢》(48年)などがある。肖像画、花鳥画、風景画と広い作域をもち、しかもそのどれにも安定した力量をみせている。
]]>今回の仕事は、従来の古画落剥模写ではなく、自鳳期に描かれた日本最古の壁画の高い芸術性を再現するという趣旨に基づき、その点について、着手前に確固たる制作方針を決定せねばならなかった。
まず壁面をおおう不快な黒い汚れを払いのけ明るい画面にすること。
おびただしい落剥や、
着色も焼失直前には落ちた状態であっても、当然施されていたと確認され、着色すれば、より以上に画面に精彩を加えると思われる個所は補色すること。
このように方針を決めて制作を進めた。
特にこの壁画の、ご本尊の頭部胸部、また右側上方の甲冑をつけた天部の顔面は、後世の補色または描き直しであることは明瞭で、これを当初の姿に近づけるため、あらゆる資料を検討し、焼損壁画を研究した。結果として、本尊は焼損壁画に残っている
すすけた焼失直前の壁画より、より以上に明るく、また今日の可能の限界においては、当初の姿に再現できえたと思う。
縦310.0cm × 横(上幅)254.4cm (中幅)252.4cm (下幅)248.5cm
神将はいずれも歯をむき、太い眉毛、にらみ据える眼など形相ものすごく、逆髪の神将は牙を巻き上げ、肉身には暗褐色の色隈を施していっそうの畏怖感を盛り上げる。初唐の西域系画家尉遅乙僧が長安光宅寺の寺門に描いた降魔変像は中華の威儀に非ずと評されたように、こうした複雑な色合いと激しい動きを伴った立体描写であっただろう。
おびただしい落剥や、
ご本尊の頭部胸部、また右側上方の甲冑をつけた天部の顔面は、後世の補色または描き直しであることは明瞭で、これを当初の姿に近づけるため、あらゆる資料を検討し、焼損壁画を研究した。(中略)
すすけた焼失直前の壁画より、より以上に明るく、また今日の可能の限界においては、当初の姿に再現できえたと思う。
]]>序 法隆寺金堂壁画の「写と想像⇄創造」
第1号壁 釈迦浄土図・・・・・吉岡堅二(吉岡班)
第2号壁 菩薩半跏像・・・・・羽石光志(安田班)
第3号壁 観音菩薩像・・・・・平山郁夫(前田班)
第4号壁 勢至菩薩像・・・・・岩橋英遠(安田班)
第5号壁 菩薩半跏像・・・・・稗田一穂 吉岡堅二 麻田鷹司(吉岡班)
第6号壁 阿弥陀浄土図・・・・安田靫彦 吉田善彦 羽石光志(安田班)・同壁部分紹介
第7号壁 聖観音菩薩像・・・・稗田一穂 麻田鷹司(吉岡班)
第8号壁 文殊菩薩像・・・・・野島青茲(橋本班)
第9号壁 弥勒浄土図・・・・・橋本明治(橋本班)
第10号壁 薬師浄土図・・・・・前田青邨 守屋多々志(前田班)・同壁部分紹介
第11号壁 普賢菩薩像・・・・・大山忠作(橋本班)
第12号壁 十一面観音菩薩像・・前田青邨 近藤千尋(前田班)
大正元年8月岐阜県大垣市に生まれる。本名正。
旧制中学4年頃まで油絵を描く。雑誌で《平治物語絵巻》を見て開眼、昭和5年より前田青邨の門に入り、書生として修業する。この時期多くの古絵巻を模写。
東京美術学校日本画科に入学、 昭和11年同校を卒業。16年第28回院展で初入選。29年から31年まで総理府の留学生として2年間イタリアに赴き、その間ローマ、ポンペイで古代ローマ壁画の模写を行う。
昭和42年金堂壁画再現模写事業に際しては前田班の一員として十号壁薬師浄土を担当した。48年には再び青邨のもとで高松塚古墳壁画模写に従事、東壁の女人群像を担当する。49年日本美術院同人となる。愛知県立芸術大学教授となり、美術学部長、教育資料館長を歴任。現在日本美術院評議員。
高野山金剛峯寺別殿障壁画(昭和54年)や大本山本能寺のための《日隆聖人絵巻》(60年)、神社本庁依頼による《平成御大礼絵巻》(平成4年)など、歴史に遺る舞台での活躍が目立つ。
この他の代表作に《駒競べ》(昭和52年)、《平家厳島納経》(53)、《二河白道》(57年)、《愛縛清浄》(60年)などがある。
確かな技術に支えられながら、物語性の色濃いドラマチックな主題が壮大なスケールで絵画化された作品群は歴史画に新しい地平を拓いた。
]]>「第10号壁 薬師浄土図」を担当した前田班の前田青邨、守屋多々志のうち、本稿では
前田青邨氏のメッセージと作品を紹介いたします。また同10号壁の部分画像を、
守屋多々志氏のメッセージと作品と共に別ページにて紹介いたします。
私は焼損前の模写事業には関係がなかった。そこでかえって今回の再現の仕事を、漫然とおひきうけすることになったわけである。
ところが法隆寺に現在残る壁画を見に行って、これは大変なことになったと改めて痛感した。しかしとにかく、できるだけのことはいたしてみた。
私の担当は10号の大壁で、他に同じ班として、3号と12号の二小壁が加わる。10号壁については荒井寛方氏の模写が完成しており、また便利堂撮影の原寸写真も参考になった。こうした資料によりながら壁面の現状をも再三詳しくしらべ、現代においてなしうる限りの再現を期した。10号壁は破損も多く、また全体に黒ずんでしまい、本来の美しさをはなはだしく傷つけている。そこで全体として「一皮むいて」描こうと思った。
原画の色彩、すなわち絵画的生命がすでに薄らいでいる以上、旧状にもどすのではなく「原画の美しさ」を再現するのが何よりだと信じる。これが私の根本の考え方であり、そのためには、あらゆる資料を用い、私の技術をつくした。私としてはとにかくこれ以上のことはできない。
一番に申上げておきたいのは、10号壁の本尊のお顔は、表面がひと塗り補修されていることである。これは赤外線写真を参照してもはっきりわかることだし、ことに今回は、焼損後の画面を調査撮影し、くわしく比較することでそれを確かめた。手足の色は原初のままだから、それと調和するように本尊のお顔を描いた。
また右上にある天部の顔も描き直されたことは明らかで、顔の色も黒ずみ、また頭髪は外側の原初のままの部分とはっきり筆が変っている。この部分は補修のあることがわかるようにしながら、顔の色を左側の天部のそれと調和させ、明るくした。
以上の二つの問題は、私としてこう信ずる十分な理由があるわけで、文章としてここに書き残しておきたいと思う。他にも種々細かい点で問題はあるが、だいたい旧状の通りに描いた。その際苦労したのは線の問題である。焼損後の壁画を調べてみると、最初に図柄を写したと思われる細い傷、いわゆる釘彫りのような線が残り、その中に毛筋ほどに墨がしみこんでいる。ところがその上に引かれた描き起こしの線は、ほとんど消えていたり、また少しずれている所もあって、その再現には大変に心をくだいた。
ほかに右側の脇侍菩薩の右手先と胸の部分とに、壁体ごとはがれ落ちた個所があり、著しく画面を損っていた。幸いにこの部分は平木氏所蔵の古い模写にはまだ残っており、また手の一部は壁面に見えるので、これらによって画面を補った。また壁面の下方に油の流れたしみの跡がいくつかあるが、これは原画とは関係ないことで、しかも絵の美しさを傷つけるので、全くはぶいた。(6号壁の場合には、この油滲みの中にかえって図様がよく残って見えるので写す必要があろうが、10号壁の方は全く絵と関係ない)要するに、いかにすれば、壁面の美しさを再現できるかが眼目であった。
10号壁の制作には、守屋多々志君が主に努力してくれ、助手として、月岡栄貴、蓮尾辰雄の両君が手伝ってくれた。しかし重要な顔面や、すべての描き起しは私自身が筆を執り、始終全体の統一を考えて描いた。
もともと私は、壁面を切って部分的に仕上げてゆくことはいたさぬ方針であった。最初から全壁面を大きく仕立てて、私の画室に持ち込み、下塗りから同時にやって行った。従って助手が色を塗っている所でも絶えず眼を離さず、常に全体の統一に心をくばり、努力した。この点は、他の班の方々の制作法とは異るかもしれない。ことに彩色を「一皮むいた」感じにするためには、全体の色の調和に非常に苦心した。
縦310.0cm × 横(上幅)254.4cm (中幅)252.4cm (下幅)248.5cm
法隆寺金堂壁画 第10号壁 薬師浄土図
㊧再現壁画 昭和42〜43年(1967-68年) 前田青邨 守屋多々志(前田班)
㊨昭和15〜26年(1940-51年)頃 荒井寛方 中庭煖華 森田沙伊 座間素賢 上垣候鳥(荒井班)
宣字座に倚坐する薬師如来を中心に、日光・月光の両脇侍、2菩薩、2羅漢、4神将、やや下方前面に金剛力士2軀を配する。如来の左手に宝珠らしきものがみえ、儀軌に「如来の左手に楽器、亦の名は無価珠を執らしめる」とある無価珠にあたるとされる。神将は頭上に十二支の標識をつけていないが、十二薬叉太将と認められ、そのうち向かって右方の神将の顔が旧壁画に於いては後補されている。
北壁扉の東側の大壁。倚像の如来像と両脇侍像からなる三尊像を中心に菩薩2体、羅漢2体、神将4体、力士2体などを表し、下方には供物台とその左右に一対の獅子がおり、上方には中央に天蓋、その左右に天人が表される。焼損前の写真を見ると、比較的保存状態はよいが、薬師如来像の顔面や肉身が変色して黒ずんでいた。
10号壁は破損も多く、また全体に黒ずんでしまい、本来の美しさをはなはだしく傷つけている。そこで全体として「一皮むいて」描こうと思った。
原画の色彩、すなわち絵画的生命がすでに薄らいでいる以上、旧状にもどすのではなく「原画の美しさ」を再現するのが何よりだと信じる。これが私の根本の考え方であり、そのためには、あらゆる資料を用い、私の技術をつくした。私としてはとにかくこれ以上のことはできない。
壁面の下方に油の流れたしみの跡がいくつかあるが、これは原画とは関係ないことで、しかも絵の美しさを傷つけるので、全くはぶいた。(6号壁の場合には、この油滲みの中にかえって図様がよく残って見えるので写す必要があろうが、10号壁の方は全く絵と関係ない)要するに、いかにすれば、壁面の美しさを再現できるかが眼目であった。
]]>序 法隆寺金堂壁画の「写と想像⇄創造」
第1号壁 釈迦浄土図・・・・・吉岡堅二(吉岡班)
第2号壁 菩薩半跏像・・・・・羽石光志(安田班)
第3号壁 観音菩薩像・・・・・平山郁夫(前田班)
第4号壁 勢至菩薩像・・・・・岩橋英遠(安田班)
第5号壁 菩薩半跏像・・・・・稗田一穂 吉岡堅二 麻田鷹司(吉岡班)
第6号壁 阿弥陀浄土図・・・・安田靫彦 吉田善彦 羽石光志(安田班)・同壁部分紹介
第7号壁 聖観音菩薩像・・・・稗田一穂 麻田鷹司(吉岡班)
第8号壁 文殊菩薩像・・・・・野島青茲(橋本班)
第9号壁 弥勒浄土図・・・・・橋本明治(橋本班)
第10号壁 薬師浄土図・・・・・前田青邨 守屋多々志(前田班)・同壁部分紹介
第11号壁 普賢菩薩像・・・・・大山忠作(橋本班)
第12号壁 十一面観音菩薩像・・前田青邨 近藤千尋(前田班)
明治18年1月岐阜県中津川に生まれる。
本名廉造。34年に上京、梶田
翌年師半古より青邨の号をうける。同門の小林古径に兄事しながら研鑽を積み、国学院大学の聴講生として古典文学などを学ぶ。
明治40年紅児会に入会。岡倉天心の
大正3年に再興された日本美術院に参加、同年同人に推挙され、以後院展の中心作家として活躍する。
大正11年古径とともに渡欧、エジブト、イタリア、フランスなど各国の美術館や古跡を歴訪し、特に初期ルネサンスの絵画から深い感動と啓示を与えられた。大英博物館で顧愷之の《女史蔵図巻》の模写を行う。これを契機に《羅馬使節》(昭和2年)、《洞窟の頼朝》(4年)、《罌粟》(5年)と中期の大作が次々と制作された。10昭和年帝国美術院会員、 19年帝室技芸員となる。
戦後も昭和36年に東京芸術大学日本画科主任教授となって後進の指導を行うほか、日本美術院の精神的支柱としても重責を担う立場で活躍を続ける。30年文化勲章受章。
昭和42年法隆寺金堂壁画再現模写を監修、48年には高松塚古墳壁画模写総監督などを歴任する。
制作面でも年齢とともに振幅を増し、《出を待つ》(昭和30年)、《白頭》(36年)などの人物画から《腑分》(45年)、《知盛幻生》(46年)のような歴史画や《水辺春暖》(48年)などの花鳥画まで縦横の画筆を振るった。
昭和52年10月27日死去。
]]>さいわい、このたび法隆寺金堂壁画再現委員会が発足し、私はふたたび壁画の再現模写にたずさわることができた。これは画家として何ものにもかえがたい喜びであるとともに、焼失以来満たされることのなかった悲しみからはじめて解放される思いがし「ようやく救われた」というのが偽らざる気持だった。
私の担当した壁画は、弥勒浄土を描いた、いわゆる9号壁である。
この9号壁は4大壁のうちでいちばん剥落がはなはだしく、ちょっと見たところでは一面に白っぽい空間に、色や線の痕跡がぼつぽつみえるといった感じの壁画なのである。そして私の意図したものは、この9号壁の焼失寸前の忠実な再現模写であった。これは焼失前に私の手がけていた壁画だったので、剥落の大きいため敬遠されがちな仕事ではあるが、私は喜んでお引受けした。とくに壁質をできるかぎり忠実に再現して、その美しさを強調したいと思った。
この壁画の剥落の大きいのは、それが金堂の北壁西寄りに位置し、出入口との関係上、西日にさらされ、風化がはげしかったためであろう。しかし白壁に近い虚ろな剥落は神秘的ともいえる美しさをかもしだし、それがかえっておもしろい効果をうんで、千三百年という長い歴史を超えた〈現代〉を感じさせる。
模写に熱中していると、剥落した部分としない部分で線や色彩が切れたりつながったりし、その不連続の空間から無限の幻想が絶えず湧き出てくる思いがした。また弥勒菩薩や脇侍の羅髪の群青、宝冠の色彩や、台座である蓮華座の朱色の美しさにしばし見とれることもあった。私はこの忠実な再現模写によって、見る人に無限の幻想と悦惚感をいだかせることができたらと念じつつ、筆を進めたのであった。
今回の再現模写を引き受けていちばん懸念したことは、かつて十年かかっても完成にいたらなかった仕事を、たった一年ぐらいで仕上げるということであった。はたしてそんな短時日で全壁が完成できるであろうかと、予測が立たなかった。しかし前回と今回とでは仕事の進めかたに大きな違いがあった。
もちろんこのたびは実在の壁画はないので、前回の模写を資料にし、記憶をたどってその経験を生かしてとりかかったのであった。私は自宅の裏に、プレハブの画室を建て、そこで壁画の完成に精進し、これで一年以内の完成も可能となったのである。そしてまたこれには江守若菜氏、岡田守巨氏、本村卓三氏、梨本喜代松氏らの助力があり、その努力によって完成されたことは心から感謝にたえない。
いま私はこの再現模写を終えて、長いあいだ心にかかっていた重荷を取除き、はればれとした気持で斑鳩の里の清澄な空を思い浮ベているのである。
縦305.7cm × 横(上幅)263.2cm (中幅)255.7cm (下幅)255.9cm
第9号壁《弥勒浄土図》
橋本明治 村田泥牛 吉田善彦 名古谷謙一 大山忠作 桑原清明 小寺禮三(橋本班)
北壁扉の西側の大壁。蓮華座上に坐す如来像と両脇侍像からなる三尊像を中心に、天部2体、八部衆のうち4体、羅漢2体、力士2体の計13体を表す。下方には供物台とその左右に一対の獅子がおり、上方には中央に天蓋、その左右に天人が表される。焼損前の写真を見ても、西日が当たる位置にあったためか、全体に剥落が激しく、図様がはっきりしない。
この9号壁は4大壁のうちでいちばん剥落がはなはだしく、ちょっと見たところでは一面に白っぽい空間に、色や線の痕跡がぼつぽつみえるといった感じの壁画なのである。そして私の意図したものは、この9号壁の焼失寸前の忠実な再現模写であった。(中略)これは焼失前に私の手がけていた壁画だったので、剥落の大きいため敬遠されがちな仕事ではあるが、私は喜んでお引受けした。とくに壁質をできるかぎり忠実に再現して、その美しさを強調したいと思った。
この壁画の剥落の大きいのは、それが金堂の北壁西寄りに位置し、出入口との関係上、西日にさらされ、風化がはげしかったためであろう。しかし白壁に近い虚ろな剥落は神秘的ともいえる美しさをかもしだし、それがかえっておもしろい効果をうんで、千三百年という長い歴史を超えた〈現代〉を感じさせる。
]]>序 法隆寺金堂壁画の「写と想像⇄創造」
第1号壁 釈迦浄土図・・・・・吉岡堅二(吉岡班)
第2号壁 菩薩半跏像・・・・・羽石光志(安田班)
第3号壁 観音菩薩像・・・・・平山郁夫(前田班)
第4号壁 勢至菩薩像・・・・・岩橋英遠(安田班)
第5号壁 菩薩半跏像・・・・・稗田一穂 吉岡堅二 麻田鷹司(吉岡班)
第6号壁 阿弥陀浄土図・・・・安田靫彦 吉田善彦 羽石光志(安田班)・同壁部分紹介
第7号壁 聖観音菩薩像・・・・稗田一穂 麻田鷹司(吉岡班)
第8号壁 文殊菩薩像・・・・・野島青茲(橋本班)
第9号壁 弥勒浄土図・・・・・橋本明治(橋本班)
第10号壁 薬師浄土図・・・・・前田青邨 守屋多々志(前田班)・同壁部分紹介
第11号壁 普賢菩薩像・・・・・大山忠作(橋本班)
第12号壁 十一面観音菩薩像・・前田青邨 近藤千尋(前田班)
明治37年8月島根県浜田町に生まれる。
絵や俳諧に興味を持つ祖父市太郎に感化を受けて育つ。島根県立浜田中学校在学中より日本美術学院から「日本画講義録」を取り寄せて独習。
大正15年東京美術学校に入学し、在学中の昭和4年第10回帝展に《花野》を出品し初入選する。6年卒業後、子木社の会員に迎えられ松岡映丘に師事する。この頃映丘に「理屈で絵を描いている」と評されたが、マチスやピカソの明快な色面に影響を受けていく。11年松岡映丘の指示で《粉河寺縁起絵巻》の模写を行う。10年代は官展で三度の特選をとるが、官展の様式主義に反感を持ち、フォービスムや独立展系の画風に魅せられていく。
昭和15年安田鞍彦の推薦で法隆寺金堂壁画模写主任となる。最年少(36歳)であった。橋本班は法輪寺に宿泊し、8号・9号・11号壁を担当した。
23年創造美術結成と同時に同人となり官展を離れるが、25年日展へ復帰。法隆寺壁画の模写作業もこの年終え、東京に転居。26年日展に《赤い椅子》を出品、明快で骨太の橋本芸術が完成される。
42年法隆寺壁画再現事業に従事、前回同様8号・9号・11号号壁を担当。翌43年皇居新宮殿杉戸絵《桜》を制作。
46年日本芸術院会員、49年文化勲章を受章。平成3年3月25日急性肺炎のため死去。
]]>○八号壁(文殊菩薩)
○基本方針 焼失直前の状態を忠実に再現する。ただし壁画の汚れ、亀裂、剥落は状況によって色を薄くするなど壁画の美しさを出すように努める。壁の感じを出すように努める。
○資料 原色写真など可能な限りの参考資料を集めたが、8号壁は幸い前回の完全模写がある。焼失直前の状態であり、原画焼失の現在では唯一の拠り所でもある。
○模写方法 前回同様、和紙にコロタイプ印刷された原寸大の写真に彩色してゆく。8号壁は全体に白っぼく色は少ない。第一段階は下地作りである。はじめに写真の白黒の中から黒の部分である線、形、亀裂、壁の無数の汚れなどを残しながら壁の地に当る部分へ胡粉の白を塗り込んでゆく。これらは非常に複雑な変化を持つので、点を打つようにして形や線を崩さないように細心の注意を払いながら進めてゆく。壁の感じを出すためにはある程度の絵具の厚い塗り込みが必要なので、繰返し何回か塗り重ねる。次に全体に胡粉をぬり、おおよその下地ができた上に絵を描きつつ、下地その他を整えながら仕上げてゆく。
○要点 長い年月に剥落がはなはだしく、線は細く切れ、形も鮮明でない。そのうえ壁の汚れなどがこれらをさらにまぎらわしくしている。この中から正しく形や線をひろい上げてゆくことが大切であり、模写の良否を左右する。線描を主体とする壁画であるためこれが最も重要な点であり、制作におけるデッサンに相当する。
最後までデッサンは崩さないように留意する。特に細く切れた線は筆路、筆勢を失ってはならぬ。むつかしいことではあるが、壁画の高度の芸術性を正しく分析把握して再現することはさらに大切である。
○追記 長い期間中には当然思うようにできなくてやり直すこともたびたびであったし、古色を出す工夫をしたり、絵の一部分になってしまったような壁の汚れの表現技法を工夫したり、 一本の線のゆくえをあれこれ追究したり、変化も多かったけれど、模写であるため仕事はいきおい事務的工芸的であり、広い面積を同じ単調な操作のくり返しで埋めてゆく場合が多く、たいくつと忍耐の相克をしいられたのは止むを得ない。
また、 一年という期限は仕事の分量に対し十分とはいいかね、忙しいものであったが、 一歩一歩急がず終始着実に息を整えて歩いてゆく努力も必要であった。短期間というばかりでなく、精神的、労力的にも助手の方たちの協力を得られてこそ可能な仕事であった。その点で武田良三、青島淑雄、山下邦雄の三氏の熱心な協力があって、理想的かつ順調に仕事が進んだ。深く感謝している。
それもこれも春夏秋冬つかの間に過ぎてしまった感が深い。創作とは異った苦しさや楽しさであったが、日本画の母体であるこのすぐれた壁画と一年間とり組めたことは画家として幸いであった。
○昭和43年2月29日模写終る。
縦309.7cm × 横(上幅)158.1cm (中幅)152.5cm (下幅)153.1cm
頭上に揺れ動く火烙宝珠付天蓋をかけ、宣字座にゆったりと坐す文殊菩薩。右手を膝上に置き、左手は挙げて3指を立て、まこと『維摩経』に説かれる維摩居士と問答する文殊菩薩を描いたものに相違ない。敦煙の初唐窟である220窟(642年)の東壁には維摩居士と問答する本図と類似の文殊菩薩が描かれている。
北面の西端。向かって右を向いて坐す。図像的特色からは尊名の確定が困難であるが、この絵と対をなす11号壁が普賢菩薩(釈迦如来の右脇侍)像であることから、8号壁の像は文殊菩薩(釈迦如来の左脇侍)像であると判断される。焼損前の写真を見ても画面に亀裂が目立つ。
法隆寺金堂の北壁西側に位置する第8号壁は金猊観音圖屏風のスペース上の都合で、丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1f北壁ながら中央位置左手に110×56cmの約36%サイズに縮小したプリント紙を壁面に張り付けました。
※著作権の都合で、法隆寺金堂壁画の複写画像はモザイクを掛けています。
原色写真など可能な限りの参考資料を集めたが、
8号壁は幸い前回の完全模写がある。
焼失直前の状態であり、原画焼失の現在では唯一の拠り所でもある。
(中略)
はじめに写真の白黒の中から黒の部分である
線、形、亀裂、壁の無数の汚れなどを残しながら
壁の地に当る部分へ胡粉の白を塗り込んでゆく。
これらは非常に複雑な変化を持つので、
点を打つようにして形や線を崩さないように
細心の注意を払いながら進めてゆく。
壁の感じを出すためにはある程度の絵具の厚い塗り込みが必要なので、
繰返し何回か塗り重ねる。
模写であるため仕事はいきおい事務的工芸的であり、
広い面積を同じ単調な操作のくり返しで埋めてゆく場合が多く、
たいくつと忍耐の相克をしいられたのは止むを得ない。
また、一年という期限は仕事の分量に対し十分とはいいかね、
忙しいものであったが、一歩一歩急がず終始着実に
息を整えて歩いてゆく努力も必要であった。
短期間というばかりでなく、精神的、労力的にも
助手の方たちの協力を得られてこそ可能な仕事であった。
]]>序 法隆寺金堂壁画の「写と想像⇄創造」
第1号壁 釈迦浄土図・・・・・吉岡堅二(吉岡班)
第2号壁 菩薩半跏像・・・・・羽石光志(安田班)
第3号壁 観音菩薩像・・・・・平山郁夫(前田班)
第4号壁 勢至菩薩像・・・・・岩橋英遠(安田班)
第5号壁 菩薩半跏像・・・・・稗田一穂 吉岡堅二 麻田鷹司(吉岡班)
第6号壁 阿弥陀浄土図・・・・安田靫彦 吉田善彦 羽石光志(安田班)・同壁部分紹介
第7号壁 聖観音菩薩像・・・・稗田一穂 麻田鷹司(吉岡班)
第8号壁 文殊菩薩像・・・・・野島青茲(橋本班)
第9号壁 弥勒浄土図・・・・・橋本明治(橋本班)
第10号壁 薬師浄土図・・・・・前田青邨 守屋多々志(前田班)
第11号壁 普賢菩薩像・・・・・大山忠作(橋本班)
第12号壁 十一面観音菩薩像・・前田青邨 近藤千尋(前田班)
大正4年4月静岡県
東京府立四中(現都立戸山高校)3年の時に松岡映丘塾に入門。昭和8年東京美術学校日本画科入学、引き続き映丘に師事。13年美校卒業。この頃は農村の娘らを描く。
同年師映丘が死去、同年同門の山本
昭和19年より文部省国宝保存会の法隆寺金堂壁画模写事業に中村班の一員として参加、24年まで続く。戦後は日展に出品を続け、 一貫して人物を追究する。24年第五回日展《博物館》、26年第七回日展《仮縫い》でそれぞれ特選を受ける。20年代は、橋本明治の影響をうけて簡明化、様式化した人物画を制作。
35年第二回新日展《モデル》が菊華賞。37年東京兼素洞で最初の個展を開催。40年第八回新日展《母子像》で文部大臣賞受賞。人物の動きを画面に取り入れ、緊密な画面構成を見せた。
昭和42年の金堂壁画再現模写事業に際しては、橋本明治班の一員として8号壁文殊菩薩を担当した。43年再現模写に基づく《文殊菩薩像》を制作。45年日本橋高島屋にて作品展を開催。昭和46年1月27日自宅にて急逝する。代表作は上記のほかに、《麗衣》(昭和37年)、《宵》(45年)などがある。
]]>ちょうど一年前の今ごろは、下地の胡粉置きを始めたばかり。 一筆ともいえない胡粉の一点一点の集積が壁の地肌を作って行ったのだ。学校時代に教課の模写はやらされても、壁画の模写というものには全く未経験な私には、どういうように進めて行ってよいか、皆目見当がつかなかった。
ただ、以前の模写にたずさわられた吉岡先生の豊かな経験と確かな記憶に導かれて、おぼつかない遅々とした足どりで、こつこつと進めて行くほかはなかった。 一日の仕事のはかどりは本人さえ見きわめられないほどで、他人の目にはなにほどのことをしていることやらわからないことだろうが、その労作の積み重ねが壁を作って行くのだと思えば、胡粉の面積が少しずつでも拡がって行くことだけが、よろこびの日日であった。紙に描いて壁にしなければならない。
壁の質感を把握しない限り紙の上の画は壁画にはなりえないのである。四度も焼損壁画を見に法隆寺へ行ったが、焼けて損傷はなはだしいとはいえ、オリジナルはオリジナルであった。あの厳しさ、大きさ、強さに模写でいかに立ち向おうと、しょせんはイミテーションでしかありえない。初めからわかりきったことである。この仕事に参加する時から私の上に重苦しくのしかかっていたものは、そのことであった。その重圧感はオリジナルを前にした時、頂点に達して無力感に襲われるのであった。
しかし、使命には従わねばならない。良くないコピーなら、今の自壁のままの方がよほど見苦しくないとも思ったが、あの円柱も模造なら壁も模造と気付いた時、今までの重苦しさが、いくらか軽くなったようであった。模造の壁の上の画はもちろん模造でも、かつての金堂をしのぶことのできるものであるなら、それは後世のためにも意義あることと思いなおしたりした。
終戦近いころだったと思う。以前の模写事業の最中、金堂へ入ったことがあった。今まで見たこともない光の中に壁画を見た時の感銘は今も忘れえない。 一種透明な輝きをもって厳かにそれは存在していた。けい光灯というものを、そこで見たのが初めてであったとおぼえている。
わるい壁画にしてはならない。金堂を醜くするようなことはしたくない。かつての信仰心は失ってしまった現代人でも、画を描く人間には画をかいた人間の魂は通ずるはずと思うことが、この仕事の唯一の拠り所であった。
しかし技術はそんなことに妥協してはくれない。画を描くのか壁を描くのかと自問した画家もあった。壁の質感の表現に仕事の大部分の時間とエネルギーを消費してしまう作業なのだから。しかし画は壁とともにある。壁あっての壁画だ。物質感の表現に、ともすれば、不得手であるといわれる日本画家に課せられた試練であるとも考えた。対象を的確に把握するには非情な眼が必要である。そして確実な腕が要求される。が肝心の対象の壁画は、かつての姿では存在しない。幻の壁画を対象としている頼りなさは初めから終りまでつきまとってはなれなかった。参考の原寸写真版、原色版を読むこと。色の質を見出すこと。発色の微妙な関係を知ることなど、吉岡先生の知識と記憶に支えられて当初全く自信もないまま着手した私にも、この壁画が少しずつとらえられるようになって来た。
そして一年、壁画はきょう私たちの手をはなれた。これから各地の展覧会を回り秋には金堂におさまると聞く。
かつての日、私の見た壁画の印象に近いものが再現されているか、金堂の中での再会が今から不安でならないのである。
縦307.5cm × 横(上幅)153.5cm (中幅)150.3cm (下幅)151.0cm
構図は4号壁勢至菩薩とほとんど同じ。しかしこの像は宝冠に化仏を表し、頭光のほか舟形の身光を負い、岩上の蓮華座に立つ点で違っている。対面壁の12号壁十一面観音が舟形光背を負い、岩上に立つところから両者はともども南海普陀落山にいる観音像を描いたもの。
尚、第7号壁に関しては昭和15年(1940年)に始まった旧壁画模写での壁画が「法隆寺再現壁画 大型本」にも特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」図録にも掲載されておらず、確認できるのは桜井香雲や鈴木空如の模写においてだけとなっています。
西面の北端。体勢は正面向きに近く、わずかに向かって左を向いて立つ。宝冠に阿弥陀の化仏(けぶつ、小型の仏像)があることから、観音菩薩であることがわかる。焼損前から剥落甚大であった。
法隆寺金堂の西側に位置する第7号壁と同様に丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1fでも西壁北側に223.4×111.8cmの約70%サイズに縮小したプリント紙を壁面に張り付けました。
※著作権の都合で、法隆寺金堂壁画の複写画像はモザイクを掛けています。
壁の質感を把握しない限り紙の上の画は壁画にはなりえないのである。四度も焼損壁画を見に法隆寺へ行ったが、焼けて損傷はなはだしいとはいえ、オリジナルはオリジナルであった。あの厳しさ、大きさ、強さに模写でいかに立ち向おうと、しょせんはイミテーションでしかありえない。初めからわかりきったことである。この仕事に参加する時から私の上に重苦しくのしかかっていたものは、そのことであった。その重圧感はオリジナルを前にした時、頂点に達して無力感に襲われるのであった。
画を描くのか壁を描くのかと自問した画家もあった。壁の質感の表現に仕事の大部分の時間とエネルギーを消費してしまう作業なのだから。しかし画は壁とともにある。壁あっての壁画だ。物質感の表現に、ともすれば、不得手であるといわれる日本画家に課せられた試練であるとも考えた。対象を的確に把握するには非情な眼が必要である。そして確実な腕が要求される。が肝心の対象の壁画は、かつての姿では存在しない。幻の壁画を対象としている頼りなさは初めから終りまでつきまとってはなれなかった。
]]>序 法隆寺金堂壁画の「写と想像⇄創造」
第1号壁 釈迦浄土図・・・・・吉岡堅二(吉岡班)
第2号壁 菩薩半跏像・・・・・羽石光志(安田班)
第3号壁 観音菩薩像・・・・・平山郁夫(前田班)
第4号壁 勢至菩薩像・・・・・岩橋英遠(安田班)
第5号壁 菩薩半跏像・・・・・稗田一穂 吉岡堅二 麻田鷹司(吉岡班)
第6号壁 阿弥陀浄土図・・・・安田靫彦 吉田善彦 羽石光志(安田班)・同壁部分紹介
第7号壁 聖観音菩薩像・・・・麻田鷹司 稗田一穂(吉岡班)
第8号壁 文殊菩薩像・・・・・野島青茲(橋本班)
第9号壁 弥勒浄土図・・・・・橋本明治(橋本班)
第10号壁 薬師浄土図・・・・・前田青邨 守屋多々志(前田班)・同壁部分紹介
第11号壁 普賢菩薩像・・・・・大山忠作(橋本班)
第12号壁 十一面観音菩薩像・・前田青邨 近藤千尋(前田班)
昭和3年8月京都市に日本画家麻田耕自の子として生まれる。本名昂(たかし)。
京都市立美術工芸学校絵画科を経て、24年京都市立美術専門学校日本画科を卒業。同校在学中の23年、第一回創造美術展に《夏山》が入選、以後毎回出品。
25年第二回展で奨励賞を受け、26年創造美術準会員となる。同年創造美術が新制作派協会と合体し新制作協会日本画部となるにしたがい同会会員となる。
以降同会に新作を発表するほか、日本国際美術展、現代日本美術展などに出品。25年第四回現代日本美術展では神奈川県立近代美術館賞を受賞。36年京都から東京へ移る。41年武蔵野美術大学講師、43年同校助教授、45年教授に就任。
この間、42年法隆寺金堂壁画再現模写に従事する。49年新制作協会日本画部が創画会となり、以後も同会の重鎮として活躍するが、昭和62年7月1日、急逝する。
一貫して風景画に取り組み、日本画の画材的特徴を最大限に生かし、色面の豊かなマチエールを創り出すとともに、日本の風景に直接感じるあたたかな感性を表現している。
代表作に《小太郎落》(昭和34年、文部省買い上げ)、《雲烟那智》(35年)、《佐渡》(40年)、《天橋雪後図》(47年)、《宗像社沖島》(53年)などがある。
]]>法隆寺の金堂炎上以来、20年間いつも心の底にあったことだが、朝日新聞社のこのご企画を安田先生から初めて伺った時、あの苦しい想い出から一瞬おそろしい気がした。同時に今こそやりとげなければならないという決意もはっきりした。
私どもの班は安田先生の下に岩橋、羽石、吉田と選ばれ、壁面は6号の大壁、2号、4号の小壁と決った。6号がやれるということは大変な感激である。それはまた一番の重責でもある。私は前の模写の経験者であることから、 一切の連絡やら段取りなど朝日新聞社の坂崎氏とご相談して進めた。安田先生にはできるだけ煩わしいご心配をかけないよう、先生のご子息建一氏を介して、仕事の場所、方法、助手のことなどをひとつひとつきめて行ったが、実際に取りかかるまで見当もつかないめんどうなことばかりであった。
前回の模写は全部東京国立博物館に移され、安田班でやる中の6号、2号はほぼ完成されている。これを参考にしつつ仕事を進めるのが不統一の心配もなく、迷わずしかもより良い道を最短距離で確実に完全にゆけると思い、東博をお借りして通ってやることにした。
ちょうど法隆寺献納御物の宝物館内に修理室があり、国宝の充満している中での仕事は幸せであったが、前の模写8壁全部が保管されてあることでもあり、火気にはことに気をつかった。私ども3名に前回2号を担当した先輩の藤井さんと真野さん、九州の古墳と取組んだ若い田中さんと有力な面々も加わり、いよいよ2月1日を期しいっせいにスタートした。
方法はだいたい前と同じで、特にこのため漉かれた越前の和紙に便利堂の原寸コロタイプを刷り、それを寺内遊神堂でくいさきという方法で継ぎ合わせ、絵具も前と同じ京都放光堂の極上のものをそろえた。まず
それから一点一画もゆるがせにせず線と色面の黒を残して克明に白の部分を起し、次に灰色の部分を起すと全体が白と灰のブロックで埋まる。それを胡粉、方解末にわずかの朱、黄土をまぜた暖か味のある白でこれも薄めに溶き、豚毛の太い丸筆に乾き気味につけつつ叩きながら全体をコロタイプがほのかに見える程度までつぶすと、ここで初めて印刷から抜け出て下地ができ上るわけである。このようにしてほとんど白くしてしまった上から同じコロタイプを置き、逆の上げ写し法で本描きに入った。
色は努めて原色を置き、あとで古色にし、壁の古色の味わいやキズや穴など寸分たがわず写し取って行く。原本からの原寸コロタイプのあることは何よりも頼りで、前の模写以上克明に正確に焼失前のイメージを呼び起し、理想に近づけえたと思う。その点、絶対に前の孫模写ではない。ただ、かつては十年もかかったことを一年でやることは、小壁はともかく大壁は不可能に近いと思われた。が、どうにかやりおえることができた。
途中から岩橋さんは4号壁をご自宅で描かれることになり、2号は真野さんのからだの不調から藤井さん一人ではどうにもならず、安田先生との連絡を兼ねて大磯から宮本さんに参加を願った。夏休み中は芸大生の谷中、自井、井上、戸渡の四君に手伝ってもらうことになり、そして一気に6号、2号の全壁面の下地ができたうえ、ある部分は仕上げにまで進めることができた。これは素直に感激して打込んでくれたこと、眼や体力の若さ、それと明るく楽しい和があったからだと思う。その後も芸大を出た若い福井君に手伝ってもらったが、このような大事業は、己を空しくして全体にわたる大きい熱意が大切で、今後とも考えるべきことと思われる。
秋になって安田先生に三尊の仕上げをしていただきがぜん生気と迫力を得た。これで短期間の不満にもかかわらず再現の意味は十分に達せられたと思う。
縦309.0cm × 横(上幅) 262.6cm (中幅) 256.0cm (下幅) 255.0cm
法隆寺金堂壁画 第6号壁 阿弥陀浄土図 再現壁画 部分図 昭和42年(1967年)
㊧勢至菩薩の上半身 ㊨観音菩薩の顔
㊧
第6号壁 阿弥陀浄土図 阿弥陀如来の顔と印相
㊧旧壁画模写 昭和15年(1940年)〜 ㊨再現壁画 昭和42年(1967年)
赤衣の大衣を通肩にまとい、転法輪印(右手は掌を開き、左手は裏返しとする)を結び、蓮華座に
法隆寺金堂の西側に位置する第6号壁と同様に丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1fでも西壁中央にほぼ実寸サイズのプリント紙を壁面に張り付けました。
※著作権の都合で、法隆寺金堂壁画の複写画像はモザイクを掛けています。
壁画は比類ないスケールの大きいすぐれた絵という以上に、柔らかく重厚で複雑な剥落の美しさなど、それは千古の壁そのものの魅力であるから、それがことごとく表現されなければならない。それで胡粉と細かい方解末をごく薄く溶き、画面を立てて流すように3、4回塗り、コロタイプをつぶすことなく地肌を作った。これは最後までざっくりしたパステル調を出すのに効果があったと思う。
胡粉、方解末にわずかの朱、黄土をまぜた暖か味のある白でこれも薄めに溶き、豚毛の太い丸筆に乾き気味につけつつ叩きながら全体をコロタイプがほのかに見える程度までつぶすと、ここで初めて印刷から抜け出て下地ができ上るわけである。このようにしてほとんど白くしてしまった上から同じコロタイプを置き、逆の上げ写し法で本描きに入った。
色は努めて原色を置き、あとで古色にし、壁の古色の味わいやキズや穴など寸分たがわず写し取って行く。原本からの原寸コロタイプのあることは何よりも頼りで、前の模写以上克明に正確に焼失前のイメージを呼び起し、理想に近づけえたと思う。その点、絶対に前の孫模写ではない。
]]>序 法隆寺金堂壁画の「写と想像⇄創造」
第1号壁 釈迦浄土図・・・・・吉岡堅二(吉岡班)
第2号壁 菩薩半跏像・・・・・羽石光志(安田班)
第3号壁 観音菩薩像・・・・・平山郁夫(前田班)
第4号壁 勢至菩薩像・・・・・岩橋英遠(安田班)
第5号壁 菩薩半跏像・・・・・稗田一穂 吉岡堅二 麻田鷹司(吉岡班)
第6号壁 阿弥陀浄土図・・・・安田靫彦 吉田善彦 羽石光志(安田班)・同壁部分紹介
第7号壁 聖観音菩薩像・・・・稗田一穂 麻田鷹司(吉岡班)
第8号壁 文殊菩薩像・・・・・野島青茲(橋本班)
第9号壁 弥勒浄土図・・・・・橋本明治(橋本班)
第10号壁 薬師浄土図・・・・・前田青邨 守屋多々志(前田班)
第11号壁 普賢菩薩像・・・・・大山忠作(橋本班)
第12号壁 十一面観音菩薩像・・前田青邨 近藤千尋(前田班)
大正元年10月東京品川に生まれる。本名誠二郎。
昭和4年速水御舟を師に画業に入る。御舟は姻戚関係にあり、 10年御舟の没後も従兄弟に当たる御舟の義兄吉田幸三郎の配慮で目黒の御舟のアトリエで制作を続ける。12年院展に初入選し、以後小林古径の指導を受ける。
15年法隆寺金堂壁画模写の事業に橋本明治の助手として参加する。この模写の仕事の中から崇高な美の世界に開眼したことが、決定的な画業の方向となって出発する。19年召集を受け、21年台湾から復員、以後、春秋は奈良に赴き模写を行い、夏冬は目黒の画室での制作という生活を送った。27年安田靫彦門下の研究会火燿会に入会。39年日本美術院同人となる。
昭和42年法隆寺壁画再現の事業に安田靫彦の班で6号壁を担当、再び法隆寺壁画と取り組んだ。創作の上でも大和の風物をテーマとして、《大和四題》(昭和43年)、《大仏殿春雪》(44年)など多くの作品が生まれる。
代表作に《袋田の滝》(38年)、《富士月明》(39年)、《天壇》(50年)、《飛鳥日月昇風》(56年)などがある。いずれも箔を巧みに使い、端麗な色感を基調とする輝きある画面を特徴とする風景画である。現在日本美術院理事。東京芸術大学名誉教授。
]]>法隆寺金堂壁画再現の仕事が予定通り一カ年ぶりで完成した。これはひとえに関係各位の熱烈なご援助によるものである。また特に申したいのは執筆者の諸君のなみなみならぬ精進努力によって、予期以上の成果をもって完了したことである。
かえりみれば、私が法隆寺を訪れたのは、明治末年、岡倉天心先生の計らいで奈良留学を命ぜられた時であった。そのころは境内に人影はなく、中門の番人が渡してくれた鍵で重い扉を開けて金堂に入った。うす暗い堂内に立並ぶ、異様の仏たちへのおどろきは述べるいとまがない。
13歳の少年のころ、東京の帝国博物館で桜井香雲の模写に接して以来のまぼろしの壁画は、堂内の暗さに馴れてきた私の眼に、荘厳な構図が生き生きと浮かんできた。神韻
私はいく日か金堂内に通って、六号壁の勢至菩薩を縮写していた。その間一日中いても、 一度、前田青邨君が訪れたきりであった。
それから、ほぼ60年たった。このたび、戦後間もなく焼けた金堂の壁画を模写再現する話が計画準備されるに当って、われわれは次のような方針によって焼損直前の状態を忠実に再現することになった。
私は、この壁画で最も大切なものは線描である、色彩は変色するが、線は剥落以外は残る、線を最重視したい、と申して賛成を得た。
吉岡君から壁画に用いてあるベンガラは、いまのはだめで朱でなければあの色は出ないといわれた。
昨42年2月1日から各班一斉に模写に着手し、 一カ年後に完成を目標とした。
6月26日、東京国立博物館内に、以前の模写を見に集まるために、一年十カ月ぶりで上京した。会場内には前回制作の6号大壁、10号大壁も出陳されていた。10号大壁の薬師のごとき、どういうわけか、他の如来とちがってお顔がまっ黒い。しかるに右足は肉色である。これは、後世なんらかの事情で変色したのであるから、お顔も肉色に復元しようかという前田君の説に同感した。
11月13日になって、鎌倉近代美術館と前田青邨邸に全4班の制作を集めて、研究する会が行われた。文化財保護委員会からも稲田委員長、松下隆章、石田茂作、田中一松、矢代幸雄諸氏が出席され、思いきった鋭い意見が交換されたのである。どの班のものも予想以上に進行しており、前回の模写よりも遥かに優れたものになりそうに思え、疲れを忘れて家に帰ったのである。その後、各班それぞれ全力をあげて総仕上げに向かったのであった。
思えば19年前、金堂壁画焼損の厄に遇って以来、常に気にかかっていた大願が成就し、あの堂内に立派に収納される日の漸く来たことは、大きな喜びとともに感慨無量のものがある。
ここに重ねて一大難事業を支援して下さった多くの方々に、心からのお礼を申上げたい。
※安田画伯執筆分は『金堂壁画再現記念 法隆寺展』図録(朝日新聞社、昭和43年)より再録した。
縦309.0cm × 横(上幅) 262.6cm (中幅) 256.0cm (下幅) 255.0cm
法隆寺金堂壁画 第6号壁 阿弥陀浄土図
㊧再現壁画 昭和42年(1967年) 安田靫彦 吉田善彦 羽石光志(安田班)
㊨昭和15年(1940年)頃 入江波光 入江酉一郎 吉田友一 川面稜一 林司馬 多田敬一(入江班)
朱衣の阿弥陀と呼ばれ、大英博物館の敦煙画「赤衣釈迦説法図」と並び称賛される。蓮池から生える蓮華座に豪華な後屏を背にした阿弥陀如来を中心に、左右に観音・勢至の両菩薩、背後に懸崖や天蓋、飛翔宝珠・供養菩薩、下方の蓮池に蓮華化生や供養菩薩を配している。阿弥陀三尊をはじめ、26身すべてが一茎蓮枝に乗るいわゆる蓮池涌現式の阿弥陀浄土図で、敦煙の初唐窟に類似の図が認められる。
西の大壁。蓮華座上に坐し後屏を背にする阿弥陀如来坐像と両脇侍立像(観音菩薩、勢至菩薩)の三尊像を中心に、下部に17体、上部に8体、計25体の菩薩像を表す。この図様は浄土三部経の1つ『無量寿経』所説の浄土を表すものと解釈されている。制作が優れ、法隆寺金堂壁画の中でも代表作として知られたものである。焼損前の写真でも画面の下半分は剥落が激しく、図様が明確でない。
法隆寺金堂の西側に位置する第6号壁と同様に丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1fでも西壁中央にほぼ実寸サイズのプリント紙を壁面に張り付けました。
※著作権の都合で、法隆寺金堂壁画の複写画像はモザイクを掛けています。
堂内の暗さに馴れてきた私の眼に、荘厳な構図が生き生きと浮かんできた。神韻
この壁画で最も大切なものは線描である、色彩は変色するが、線は剥落以外は残る、線を最重視したい、と申して賛成を得た。
]]>序 法隆寺金堂壁画の「写と想像⇄創造」
第1号壁 釈迦浄土図・・・・・吉岡堅二(吉岡班)
第2号壁 菩薩半跏像・・・・・羽石光志(安田班)
第3号壁 観音菩薩像・・・・・平山郁夫(前田班)
第4号壁 勢至菩薩像・・・・・岩橋英遠(安田班)
第5号壁 菩薩半跏像・・・・・稗田一穂 吉岡堅二 麻田鷹司(吉岡班)
第6号壁 阿弥陀浄土図・・・・安田靫彦 吉田善彦 羽石光志(安田班)・同壁部分紹介
第7号壁 聖観音菩薩像・・・・稗田一穂 麻田鷹司(吉岡班)
第8号壁 文殊菩薩像・・・・・野島青茲(橋本班)
第9号壁 弥勒浄土図・・・・・橋本明治(橋本班)
第10号壁 薬師浄土図・・・・・前田青邨 守屋多々志(前田班)・同壁部分紹介
第11号壁 普賢菩薩像・・・・・大山忠作(橋本班)
第12号壁 十一面観音菩薩像・・前田青邨 近藤千尋(前田班)
明治17年2月東京日本橋に生まれる。本名新三郎。30年13歳の時に帝国博物館で法隆寺壁画の模写を見て感動したという。
31年歴史画家小堀
30年代前半に青年作家を集め紫紅会(のち紅児会と改称)で研究を重ね、10代後半ですでに前期院展での受賞を重ねる。
34年東京美術学校に入学するが、その年の秋に退学。40年岡倉天心の知遇を受け、日本美術院の国内留学生として奈良へ赴き、古美術の研究を行う。生来身体が弱く明治末から大正にかけては療養生活が長く続き、この間横浜の豪商原三渓の援助を受けた。
大正3年に日本美術院が再興されると経営者同人として参加し、次々に名品を発表した。昭和14年法隆寺金堂壁画保存調査委員となり、翌15年から模写を開始する。42年には前田青邨らとともに法隆寺金堂壁画再現模写を監修した。
昭和23年文化勲章受章。32年院展の理事長就任。横山大観没後の院を統率してきた。
昭和53年4月29日神奈川県大磯に没する。
代表作は文展出品の《夢殿》(明治44年)、院展出品の《五合庵の春》(大正9年)、《黄瀬川の陣》(昭和15-16年)、《王昭君》(32年)、《卑弥呼》(43年)などがあり、 一貫して日本の神話や歴史、中国の古代史をテーマとして新古典主義とよばれる気品高い清澄な歴史画の名品を数多く遺した。
]]>五重塔の尖端の水煙が、蒼い空、静かに流れる自いちぎれ雲に、
思ってもいなかった法隆寺金堂壁画の仕事の一員に加えられ、私は初めて壁画を見た時の少年のころが強く思い出された。東に生駒、信貴、葛城の山脈を朝夕眺めながら育った私は、奈良の寺々や飛鳥川のほとりを、父に連れられて春秋の気候のよいころによく歩き回った。その寺々や歩く先々は、少年の私に予定も知識もあるはずもなくすべて父まかせではあったが。
戦前のまだ壁画の模写も始まっていないころ父に連れられて法隆寺に行った折が最初であった。もちろん父は壁画が見られると思ってもいなかった。父は多分俳句によまれた法隆寺の斑鳩の里の雰囲気に触れたかったのであろうかと思われる。天王寺駅から汽車に乗り法隆寺駅から歩いた。広い田んぼの中からはるかに望まれる松並木が美しかった。いい気候の秋であった。型の如く金堂に拝観に行くと、壁面にかかった白布が寄せられていて壁画が見えた。ちょうど皇族の方が見えるので特別に短時間見せるということで、僅かな時間ではあったが内陣に入って幸運にも壁画を間近に見ることができた。暗い堂内、そしてかびのような独特な匂い。私たちだけの殺した足音が響き参観者はほかになかった。壁画がいかに貴重なものであり、すぐれたものであるかを理解する年齢ではなかったが、肉太な朱の線と、今にも崩れ落ちそうな壁の一部分が板ガラスで押えられていたのが強烈な印象として残っている。後に戦争中美術学校の学生旅行で法隆寺を訪れるまで三、四度訪れたが、金堂の壁画を見たのはその旅行の折りとのただ二回だけであった。模写はその時既に始っており模写の方々の休憩時間中に、脚立に登ってごく一部分ではあるが間近に色彩や線を見る事ができ、明るい螢光燈の下に照らされた美しい緑青の断片が、堂内の動いていない空気にも震えるようにゆれて、今にも落ちそうに浮いていた。
壁画は焼失してしまった。失われたがゆえに私にはなお印象が強烈に思われるのかもわからない。十二壁のうち最も破損のひどい7号壁は、いま思えば当時私の印象に強く焼きついているガラスで押えてあった壁画であったろうと思われる。
格調ある強靭な力を秘めた私の印象の壁画を想い、他の諸先輩に比してほとんど壁画に接していないといっていいくらいにその智識も経験もない私の一年間の仕事を振返ると、ますますその失われた壁画のたくまざる力の強さを感じ恥じる。
飛鳥の流れのほとり、蘇我の入鹿の墓石になにげなく鍬を立てかけて一服していた農夫の姿ののどかな大和の平野、斑鳩の里のなだらかな空気、土塀の民家の壁のぬくもり、この一年間の仕事中私の頭の中に、父と巡った少年の時のそれらの風景が壁画の力強い線と重なり、強く去来し続けた。
縦309.8cm × 横(上幅)158.0cm (中幅)153.6cm (下幅)156.8cm
法隆寺金堂壁画 ㊧第5号壁 菩薩半跏像 ㊥第2号壁 菩薩半跏像(反転) ㊨同2号壁
2号壁の半跏菩薩を裏返しにした形で、寸法もほとんど同じ。上方の偏平形の天蓋や華足付の蓮台など、形はほとんど2号壁に一致しているが、2号壁と比較すると表情はやや厳しく、かつ肉線もやや太い。
法隆寺金堂の西側に位置する第5号壁と同様に丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1fでも西壁南側に223.4×111.8cmの約70%サイズに縮小したプリントを壁面張り付け。
※著作権の都合で、法隆寺金堂壁画の複写画像はモザイクを掛けています。
戦前のまだ壁画の模写も始まっていないころ父に連れられて法隆寺に行った折(中略)金堂に拝観に行くと、壁面にかかった白布が寄せられていて壁画が見えた。ちょうど皇族の方が見えるので特別に短時間見せるということで、僅かな時間ではあったが内陣に入って幸運にも壁画を間近に見ることができた。暗い堂内、そしてかびのような独特な匂い。私たちだけの殺した足音が響き参観者はほかになかった。壁画がいかに貴重なものであり、すぐれたものであるかを理解する年齢ではなかったが、肉太な朱の線と、今にも崩れ落ちそうな壁の一部分が板ガラスで押えられていたのが強烈な印象として残っている。
模写はその時既に始っており模写の方々の休憩時間中に、脚立に登ってごく一部分ではあるが間近に色彩や線を見る事ができ、明るい螢光燈の下に照らされた美しい緑青の断片が、堂内の動いていない空気にも震えるようにゆれて、今にも落ちそうに浮いていた。
*1)菩薩半跏像は、資料によって表記が異なり、半跏思惟菩薩像は宝塚市立中央図書館「宝塚歌劇のあゆみ」展資料での記載、半跏形菩薩像は法隆寺再現壁画 大型本(朝日新聞社・1995年10月刊行)で記載されており、本稿および金猊サイト内では東京国立博物館 特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」図録やWikipediaでの記載表記に従って「菩薩半跏像」で統一することにした。
]]>序 法隆寺金堂壁画の「写と想像⇄創造」
第1号壁 釈迦浄土図・・・・・吉岡堅二(吉岡班)
第2号壁 菩薩半跏像・・・・・羽石光志(安田班)
第3号壁 観音菩薩像・・・・・平山郁夫(前田班)
第4号壁 勢至菩薩像・・・・・岩橋英遠(安田班)
第5号壁 菩薩半跏像・・・・・吉岡堅二 稗田一穂 麻田鷹司(吉岡班)
第6号壁 阿弥陀浄土図・・・・安田靫彦 吉田善彦 羽石光志(安田班)・同壁部分紹介
第7号壁 聖観音菩薩像・・・・稗田一穂 麻田鷹司(吉岡班)
第8号壁 文殊菩薩像・・・・・野島青茲(橋本班)
第9号壁 弥勒浄土図・・・・・橋本明治(橋本班)
第10号壁 薬師浄土図・・・・・前田青邨 守屋多々志(前田班)・同壁部分紹介
第11号壁 普賢菩薩像・・・・・大山忠作(橋本班)
第12号壁 十一面観音菩薩像・・前田青邨 近藤千尋(前田班)
大正9年8月和歌山県西牟婁郡田辺町に生まれる。
はじめ阿倍野橋洋画研究所で油彩画、デッサンを学び、大阪市立工芸学校工芸図案科で初めて日本画に接する。
昭和13年本格的に日本画の研究を志し上京、翌14年東京美術学校日本画科に入学、18年同校を卒業、山本丘人に師事する。13年第一回日展に入選し、第三回まで同展に出品。23年創造美術が結成されたとき同会に参加し、第一回展、第二回展で奨励賞を受ける。
26年サンパウロ・ビエンナーレ展に出品。また、同年創造美術が新制作協会日本画部となった際、新制作協会会員となる。28年第一回の個展を日本橋高島屋で開催。この頃の作品は絵本の絵のような明快で楽しい花鳥画が多い。その後、同会展のほか30年に19人の作家―戦後の絵画。彫刻―展、35年日本画の新世代展などに出品し、また、現代日本美術展、日本国際美術展、秀作美術展にも出品。この頃より金や黒を基調として怪奇的なイメージの作調となる。
昭和38年秋アメリカ・ヨーロッパを旅行。
45年東京芸術大学助教授、47年教授となる。この間42年に法隆寺金堂壁画再現模写に吉岡堅二班の一員として参加。5号壁、7号壁を担当した。
40年代より幻想的な心象風景をテーマとするようになり、近年、詩想の深い心象的風景に新たな現代都市のイメージを重ね、また夜桜を題材とした作品には余情深い文学的香りを漂わせている。代表作に《豹のいる風景》(昭和27年)、《流紋》(47年)、《帰り道》(56年)などがある。
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