丸井金猊

KINGEI MARUI

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法隆寺金堂壁画再現壁画 第1号壁 釈迦浄土図(吉岡堅二)

第一号壁(釈迦浄土図)再現壁画 全図 縦312.4cm×横(上幅)256.0cm (中幅)254.0cm (下幅)251.3cm
霊鷲山で「法華経」を説く釈迦の尊容を図絵したもの。まわりの脇待菩薩と10人の仏弟子が描かれている。

法隆寺金堂壁画の「写と想像⇄創造」

第1号壁 釈迦浄土図
吉岡堅二(吉岡班)

ある年、あるところで、われわれの仲間がたのしい会合をしていた。ラジオのスイッチを朝のニュースに入れた途端、法隆寺金堂炎上が報ぜられ、今まではしゃいでいたわれわれを愕然とさせた。それは忘れることのできない、昭和24年(1949年)1月26日の朝であった(*1)。

千三百余年のあいだ法隆寺金堂の壁を彩っていた最古の佛画12面が焼失してしまったのだ。敦煙(トンコウ)、インドのアジャンタの佛教的壁画はいずれも石窟または石造物に描かれたもので、木造建築の壁画が千三百余年も伝えられたのは世界に例をみることができない。それが取返しのつかないことになってしまったのだ。しかしだれの過失でもない。いわば昭和の時代そのものの責任ともいえないことはない。その責任を果すには今しかないと思う。戦前、国の委嘱をうけて法隆寺の壁画模写に取組んだ経験をもっている人たちもだんだん少なくなってゆくであろう。この機を失しては永久に金堂は白壁のまま置かれることになるかもしれない。

今回の計画目的は、焼失寸前の壁面を再現することにあるので、寸分違わぬ忠実な模写を作成することである。戦前、一次の模写のとき(*1)に撮影された原寸大のコロタイプを、特に()かせた和紙に淡く印刷し、それをたよりに着彩をすすめてゆく一次のときと同じ方法がとられた。

しかし以前の場合は7、8年かかっても完成をみなかったものを、今回は1年間という短時間でやらなければならない(*1)という無理があったと思う。現存する壁画の前での制作ならとにかく、参考程度の原色版をたよりに仕事を進めなければならないので、厳密にいって模写といえるかどうか。そうしたことでずいぶん悩んだこともあった

東京博物館まできている一次の模写をアトリエまでの貸出しも禁じられているので、部分、部分をカラースライドに撮り、アトリエで壁画と同じ原寸大に映写して、なお色彩の判読できないものは、今回使用する絵具によって作った150色あまりの色彩帖によって一次の模写と照し合せて、少しでも誤差をなくすようにつとめた。

私たちの班の受持は、1号壁の釈迦浄土変(大壁) 5号壁菩薩思惟像(小壁) 7号壁観音菩薩像(小壁)であった。そのうち5号壁と1号壁は一次の模写のときに手掛けたもので、26、7年前のすでに忘れているはずの記憶が仕事が進むにつれてよみがえってきて絵具の微妙な発色やら、細密な表現が徐々にわかってきたので比較的順調に仕事をすることができた。そのうちでも幸いなことに1号壁は戦前の赤外線写真がかなり豊富にあって、コロタイプでは判別できにくい、赤色系、緑色系をはっきり区別することができた。

そのほか(ちり)(かび)によって肉眼では見えなかった、墨の線描などがはっきりして、狛犬、衣紋の線などの表現に大いに役にたった。この大きな模写の仕事が終ってみて、その蔭に多くの協力して下さった方々の努力があったことを厚く感謝している。

法隆寺再現壁画 大型本(朝日新聞社・1995年10月刊行)より
赤色下線が展示予定フレーズ、緑色下線は候補となったフレーズ

*1)吉岡堅二は法隆寺金堂火災のあった昭和24年(1949年)は43歳、焼損前の第一次模写が行われた昭和15〜17年(1940〜42年)は34〜36歳、再現壁画事業の実施された昭和42年(1967年)は61歳頃に迎えている。

第一号壁(釈迦浄土図)解説

縦312.4cm×横(上幅)256.0cm (中幅)254.0cm (下幅)251.3cm

法隆寺金堂外陣旧壁画 第1号壁, 奈良文化研究所 奈良国立博物館 kondo01_bf01.jpg
Zoom 法隆寺金堂外陣旧壁画㊧と旧壁画模写㊨:新井勝利(かつとし)我妻碧宇(あずま へきう)、吉岡堅二、緑翠(りょくすい)(中村班)

大壁4面は6号壁を除いて構図の基本を同じくし、中尊(ちゅうぞん)脇待(きょうじ)・羅漢・神将(しんしょう)・天部を中心に、上方に天蓋(てんがい)、その左右に飛天、下方には葡萄唐草で飾る供物(くもつ)台、その左右に岩や土坡(どは)蹲踞(そんきょ)する獅子2軀を描く。1号壁は霊鷲山(りょうじゅせん)で法華経を説く釈迦の図絵したもの。まわりに薬王、薬上菩薩に比定される脇待菩薩と10人の仏弟子が描かれる。

法隆寺金堂壁画 第1号壁 写真ガラス原板 第三の列の三 法隆寺金堂壁画 第1号壁 再現壁画模写部分図
Zoom 写真ガラス原板 第三の列の三㊧と再現壁画模写部分図㊨ 右側菩薩と仏弟子:吉岡堅二(吉岡班)

菩薩が持つ、ガラス器を透かせて指がみえるように描くのは透露描法と呼ばれ、初唐の画法に学んだもの。菩薩の前方の弟子は迦葉尊者、後方は確かではないが、ともに老と壮をよく描きわけ、まこと見事である。

法隆寺再現壁画 大型本(朝日新聞社・1995年10月刊行)より

丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1f 展示プラン

法隆寺金堂の東側に位置する第1号壁と同様に丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1fでも東側に配置するには、展示スペースの東側にピアノがあってその奥には踏み込みづらいので、ピアノの手前天井にあるライティングレールを利用して、B0サイズのタペストリー(145.6×103cm)にして上から垂らすことにしました。

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※著作権の都合で、法隆寺金堂壁画の複写画像はモザイクを掛けています。

画家の言葉・引用フレーズ

現存する壁画の前での制作ならとにかく、参考程度の原色版をたよりに仕事を進めなければならないので、厳密にいって模写といえるかどうか。そうしたことでずいぶん悩んだこともあった。

5号壁と1号壁は一次の模写のときに手掛けたもので、26、7年前のすでに忘れているはずの記憶が仕事が進むにつれてよみがえってきて絵具の微妙な発色やら、細密な表現が徐々にわかってきたので比較的順調に仕事をすることができた。

主催者メモ

壁画の番号順に第1号壁「釈迦浄土図」を模写した吉岡班の吉岡堅二氏の言葉から始めます。吉岡氏は壁画焼損前の昭和14年(1939年)に設置された法隆寺壁画保存調査会による模写事業(昭和15年開始)に30代半ばの若さで携わっていて、そのときには中村岳陵率いる中村班の一員として第1号壁と第5号壁「半跏形菩薩像」を担当しました。それが昭和42年(1967年)の壁画再現事業の頃は還暦過ぎの画家としてはもっとも油の乗ったと言えるだろうタイミングで、しかも吉岡班という代表的な立場で前回と同じ第1号壁・5号壁の他に班としては7号壁「聖観音菩薩像」も担当しています(本人は直接手掛けてはいない模様)

壁画再現事業4班の代表者は1967年から生誕年を引いた単純計算で1884年生まれの安田靫彦が83歳、1885年生まれの前田青邨が82歳、1904年生まれの橋本明治が63歳、そして1906年生まれの吉岡堅二が61歳と、吉岡氏が一番若い代表者という立場での参加でした。

ちなみに金猊は明治42年(1909年)の生まれで吉岡氏の3歳下。東京本郷駒込生まれの吉岡氏が東京美術学校に通っていたならば、金猊と1年は重なる時期を過ごしたはずでしたが、川北倫明「吉岡堅二の芸術」によると<母につれられて父と同門だった野田九浦(きゅうほ)を訪ねた堅二は、15歳で学校を中退し、九浦塾で専心勉強することになる。聞くところでは、九浦はまず堅二に東京美術学校の専科に入ることを勧めたが、あいにくその年からこの制度がなくなっていて断念せざるを得なかった>とのことで、同窓の先輩とはなりませんでした。

しかし、美校に通わずとも20歳で帝展に初入選し、以後も連続入選で昭和5年(1930年)には24歳にして《奈良の鹿》で帝展特選を取って頭角を現し、二度に渡って法隆寺模写事業に携わった吉岡氏を金猊が意識していなかったわけがないと思います。ただし、歳が近いことから安田靫彦の世代を尊敬の眼差しでみるのとは異なる視線だったのではないでしょうか。

金猊は帝展には出品せず、現在あまり知られていない国際美術協会主催 第一回美術展覧会に昭和5年20歳で出品し、首席入賞となっています(画題《菊》所在不明)。そこで帝展を挑戦(発表)の場として選ばなかった理由は不明ですが、吉岡氏も特選を取って以降、無鑑査で出品はしますが、帝展という発表の場では飽き足らず、福田豊四郎(1904-70年)小松(ひとし)(1902-89年)と組んで山樹社を、さらに岩橋英遠(えいえん)(1903-99年)酒井亜人(あじん)(1904-65年)柴田安子(1907-46年)文子(ふみこ)(1918-2019年)らを加え総勢17人の研究グループ、新日本画研究会(昭和13年に新美術人協会と改称)を創立し、新時代の「日本画」を切り拓くべく同志と芸術運動を展開させます。

吉岡作品の特色として、特選作《奈良の鹿》は<そのころ親炙していたアンリ・ルソー風の描写と大和絵的描写をコンバインした新様式>(*2) として描かれ、昭和12年・14年作の2作品《馬》も<ピカソの影響を受けてキュビスムを追究し>(*2) と、西洋近代絵画の技法を器用に日本画に取り込んだ作風のようにも思えますが、生涯を通して鳥の絵を多く残した吉岡氏の一連の作品を見ていると同じキュビスムでも同じく鳥の絵を多く残したジョルジュ・ブラックとある似た気質を感じます。

川北倫明「吉岡堅二の芸術」(*3) で紹介された昭和25年10月の『三彩』に掲載された吉岡氏の「制作手帖」の一文から一部抜粋し、それを受けての川北氏の言葉もここに引用したいと思います。

 自分は今朝もアトリエに置かれたキャンバスのベッドの中で捕えることの出来ないものを捕えようとしている。
 跳躍、そんなことは絶対に出来ない。跳びそこねて侮様な姿を晒すのが恐ろしいのではない。一つの発展へ二つの裏づけが欲しい。それは他から見たとき、何をぐずぐずしているのだと思われる地をはっているポーズであるかも知れない、それでいいのだと思う。
 ここのところ数年描きつづけているモチーフを切り離すことができない。画用紙の切端しなどにエスキースとも、小下図ともつかない丸や三角・黒い塊など何ともわからぬものが描きつづけられている。幾枚も幾枚も比例のちがった紙に、または鋏で切り落されてゆくうちに何やら三角が鳥になったり、黒の塊が動物になったり、 一歩一歩現存するものに近よって夢が具体化してゆく。制作過程の中で一番たのしい空想が絵画面として誕生する瞬間で、この過程が何ヶ月でも持続していたいものだと思う位である。
 自分はいつの場合でも物より先に何かの要素を掴み出そうとしている。

──吉岡堅二「制作手帖」より

 これによってうかがうと、堅二という技術好き、工作好き、合理的傾向の作家は、ただ単純な知性と技術一辺倒の画家とはいえない。もし、そういう一辺倒の画家であったら、とっくに日本画を捨て、最初の抽象画家となって前衛画壇の一角に顔を出す羽目となっていたかもしれない。ところが、彼はそうした簡単な跳躍で絵画ができるとは考えていないので、他方からみると、何かぐずぐずしていると思われるくらい地を這いながら、二つの裏づけのための苦心を払っている。そうして、その苦心が実を結んでいく過程の中に、最大の楽しみ、画家としての本当の生甲斐を見出しているわけである。

──川北倫明「吉岡堅二の芸術」より

(この続きがうまくまとまらないので、一旦保留として第2号壁を先に手掛けます)

*2)竹田道太郎「吉岡堅二のたどった道」(朝日出版社「吉岡堅二画集」より)
*3)川北倫明「吉岡堅二の芸術」(朝日出版社「吉岡堅二画集」より)

序    法隆寺金堂壁画の「写と想像⇄創造」
第1号壁   釈迦浄土図・・・・・吉岡堅二(吉岡班)
第2号壁   菩薩半跏像・・・・・羽石光志(安田班)
第3号壁   観音菩薩像・・・・・平山郁夫(前田班)
第4号壁   勢至菩薩像・・・・・岩橋英遠(安田班)
第5号壁   菩薩半跏像・・・・・吉岡堅二 稗田一穂 麻田鷹司(吉岡班)
第6号壁   阿弥陀浄土図・・・・安田靫彦 吉田善彦 羽石光志(安田班)
第7号壁   聖観音菩薩像・・・・稗田一穂 麻田鷹司(吉岡班)
第8号壁   文殊菩薩像・・・・・野島青茲(橋本班)
第9号壁   弥勒浄土図・・・・・橋本明治(橋本班)
第10号壁 薬師浄土図・・・・・前田青邨 守屋多々志(前田班)
第11号壁 普賢菩薩像・・・・・大山忠作(橋本班)
第12号壁 十一面観音菩薩像・・前田青邨 近藤千尋(前田班)