丸井金猊

KINGEI MARUI

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法隆寺金堂 第4号壁 勢至菩薩像(岩橋英遠)

第四号壁(勢至菩薩像)再現壁画 全図

縦307.9cm × 横(上幅)153.8cm (中幅)148.0cm (下幅)149.1cm

宝冠に水瓶を描いた勢至菩薩。第3号観音菩薩像より表情はやや厳しい。

法隆寺金堂壁画の「写と想像⇄創造」

第4号壁 勢至菩薩像
岩橋英遠(安田班)

戦時中、金堂内で模写をしている現場を間近に見る機会をえ、けい光燈の明るさの中で壁画に接したことは大きな感激であった。が、ただ一つ心にかかったのは絵と無関係に思われる(わら)が克明に写されていることで、壁画の大部分が足場などに隠れていたせいか、それはひどく印象的であった。他の余白もクモの巣やホコリが積って、吹くと海草のようにゆれるありさまで、この仕事の困難さが察せられた。事実、クモの巣の写生を嫌って去った人もあったと聞く。

その時に持った疑間は、このたび自分が壁画再現に従事することになって、文字通り他人事ではなくなった。記録としての模写でさえ第三者の立場から批判的に見た。この壁の崩れ、そこから現われた下塗りの藁──それを私はどのように処理すべきか。

千何百年もの歴史の間に、これを受継いだ人々の心が、どのように壁画に作用してきたであろうか。時によっては間違った方法のとられた部分があったとしても、大部分が焼失までは原形を止めていた。これをすべて保存への善意の集積と見れば、賊が入ったという壁の穴をふさいだ素朴な作業さえあだおろそかにできないかも知れない。が、壁画再現が、記録でも壁の写生でもなく、まして代用品であってはならない、と私には思われた。

法隆寺金堂壁画 第4号壁 勢至菩薩像(コロタイプ印刷)4号壁再現への出発はコロタイプ印刷の都合もあって他の人たちより一足おくれ、4月1日になった。そして始めの3カ月余りはお顔のひどい傷との格闘で明け暮れた。せめてお顔の傷だけでもということは私の悲願であったから。だが、それも大方針の前に徐々に崩れて自分の無力さを思い知らされて行った。予定の三分の一の期間を過ぎて、いまさら降りる事もできない状態の中で......。

お顔の傷を一応目立たない程度に止めて胸の瓔珞(ようらく)と、臀釧(ひせん)に進んで見たが、これも顔に劣らず困難を極めた。原色版とコロタイプをにらみ合わせても、ひどい剥落のために色を設定することすらできない。原画さえあればこのような苦労はいらないだろう。

まず、下図を裏返しに使ったとされている3号壁の観音像をトレースペーパーに写しとって瓔珞を当てはめて見たが、全然合わない。
鈴木空如氏の模本からも得るところがなかった。
ただ、同氏の模本から壁を白紙のままで置けば傷には触れずにすむということを学んだ。

7号壁観音像のコロタイプを借りて見るとこの瓔珞はやや近い。

6号壁の勢至の瓔珞も参考にして一応復元して見た。この間いく日も鉛筆だけで手探りするような日が続いた。 一年間と限られた短い期間では追われる者の焦りがあった。

壁は奈良在住の人たちの話から、この地方の青味を帯びた白い土ということで、焼けた壁と飛天の小壁などをいくたびか見学したのを頼りに、それに近い石の粉末を用いた。それを古色で汚しながら原色版の色に近づけて行った。絵の部分に使われている白土は当時でも貴重であったのかも知れない。私たちは大理石の粉末と胡粉で代用した。

できるだけの方法を試みて、結局は、自分ならば避けるであろう、と考えていた藁を描くようになったのは、私の力がそれを克服できなかったということで残念であった。

この4号壁を、返すすべもない長い歴史の最後に受取った私が、この程度にしか後の人たちに伝えることができないのを、もどかしく申しわけなく思っている。
今井珠泉、下田義寛の両氏には終始変らぬ献身的な協力を深謝したい。

法隆寺再現壁画 大型本(朝日新聞社・1995年10月刊行)より

赤色下線がピックアップフレーズ、緑色下線は候補フレーズ

第四号壁(勢至菩薩像)解説

縦307.9cm × 横(上幅)153.8cm (中幅)148.0cm (下幅)149.1cm

法隆寺金堂壁画 第4号壁 勢至菩薩像+第3号壁 観音菩薩像(反転)+同3号壁
Zoom 法隆寺金堂壁画 ㊧第4号壁 勢至菩薩像 ㊥第3号壁 観音菩薩像(反転) ㊨同3号壁

3号の観音菩薩と同じ原型を反転して用い、計測の結果からも確かめられる。宝冠に水瓶を描くので勢至菩薩と分かり、同じ原型を用いながら3号観音像と比較すると表情はこの方がやや厳しく、肉線も太くてやや硬い。3号壁とは別グループの画工の筆になるものだろう。

丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1f 展示プラン

法隆寺金堂の南壁西側に位置する第4号壁を丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1fでは、南壁に丸井金猊の《聖徳太子二童子像*》2点と《馬上太子圖*》を展示する都合もあって、それらの上部に第3号壁と対称になるように、印刷自体は紙ながらタペストリー棒に挟んで上から吊す形を取ることにしました。壁に直接貼るという方法を取らなかったのは南壁は水屋箪笥などの障害物もあり、場所も上部で貼りづらそうだったからです。

丸井金猊「写と想像⇄創造展」展 南側壁面 - 第3号壁・第4号壁
※著作権の都合で、法隆寺金堂壁画の複写画像はモザイクを掛けています。

画家の言葉・引用フレーズ

が、壁画再現が、記録でも壁の写生でもなく、まして代用品であってはならない、と私には思われた。

できるだけの方法を試みて、結局は、自分ならば避けるであろう、と考えていた藁を描くようになったのは、私の力がそれを克服できなかったということで残念であった。

序    法隆寺金堂壁画の「写と想像⇄創造」
第1号壁   釈迦浄土図・・・・・吉岡堅二(吉岡班)
第2号壁   菩薩半跏像・・・・・羽石光志(安田班)
第3号壁   観音菩薩像・・・・・平山郁夫(前田班)
第4号壁   勢至菩薩像・・・・・岩橋英遠(安田班)
第5号壁   菩薩半跏像・・・・・吉岡堅二 稗田一穂 麻田鷹司(吉岡班)
第6号壁   阿弥陀浄土図・・・・安田靫彦 吉田善彦 羽石光志(安田班)
第7号壁   聖観音菩薩像・・・・稗田一穂 麻田鷹司(吉岡班)
第8号壁   文殊菩薩像・・・・・野島青茲(橋本班)
第9号壁   弥勒浄土図・・・・・橋本明治(橋本班)
第10号壁 薬師浄土図・・・・・前田青邨 守屋多々志(前田班)
第11号壁 普賢菩薩像・・・・・大山忠作(橋本班)
第12号壁 十一面観音菩薩像・・前田青邨 近藤千尋(前田班)