丸井金猊

KINGEI MARUI

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1936(昭和11)年6月1日

御挨拶(推敲原稿)
丸井金猊作画第一回個人展覧会

粛啓 新緑爽涼の好季貴堂彌々御清穆の段賀上ます。
 陳れば小生昭和八年東京美術学校日本画科を卒業、十年同研究科修了、新時代邦画家として発足致しまして、以来恩師並長上各位の御懇篤なるご指導に従い、絶えず研鑽に力めて参りましたが、此程その御慫慂により、試作近業二十数点を纏めて茲に個人展覧会の開催することとなりました。素より菲才貧道の身、進運半途を顧みず、今にして中央画壇に見えんとする所以のものは、一に我が歩々の蹟を正明するにあり、或は又我が道程にして夫れ一里塚たらしめむ時処を念うのみ。従うに若冠未熟の弓箭を弄して敢て斯道諸侯の牙城に迫らんとするのではありませんが、亦以て自負するところは、都心紳淑の澄瞳に映じ、観賞会最前線の標的たるべく切望しました。

 折々丹青絵事の道は悠久であります。而して東洋画論の古は二千年に溯って之に温ね、泰西美学の新は寸秒を競って之を追窮し、彼に聴き此を伝えつつ、今や我が邦画精神の主流は混沌として其の歸趨に迷っています。此の秋に処して、現当まことに生くべきに生き、渇すべくして渇すの覚醒がなかったならば、百世の後に悔を遺すは必死でありましょう。小生が夙に信念とし、抱負としましたのは実にこの意義に於て精根を傾倒することでありました。然して、着眼先ず主として現代日本女性一班の風象を写生し、独自の観解に委ねて之に新流の手技を施し、全き再現を企図したのであります。即ち、鮮新なる現時日本女性美の典型を模索して、之に漢唐埃及の玄微なる香韻を通わせ、平安・ルネッサンス、婉優典雅に比しつつ、之に最新鋭の美学理論の反映せしめ、尤も清純にして最も静謐なる画面として構成せんことを期したのであります。此に誇示せる特異の「游絲描」と「ポリクロミー」はその内容に必然の形式なることを信じて疑いませぬ。

 尤論、向後小生が取材する作画主題の範疇は以上に止まることなく、想念は寧ろ巧緻繊麗から雄大荘厳に、優雅静謐から野趣躍動へと推移し、眼界又広々人事と大自然に亘って展開するでありましょう。尚又、常に内省して我が創造活動を民族意識によって強固にすると共に、一方、毎に国際意識を養って汎々通ずるものへの観念を失うことなかるべく期しています。即ち、詩と造形美術と音楽との有機的な完全な結合と昇華による特殊新型式──「第四藝術」──の創成は尤も大なる宿題として吾人将来の努力発明に嘱されているのであります。此事に想到する時、吾人の前途は洵に洋々たるものがあります。

 畢竟、先に「我が道程の一里塚」と申したのはこの意味に基くのであります。希はくば以上縷々の微衷の酌まし緑光涼風の佳夕を機とし、枉げて小会に賁臨せられ、親しく御批評御監査あらむことを。

昭和十一年六月一日    丸井金猊


会場 東京宝塚劇場 三階ホール
期日 自六月一日 至同月十五日
時間 平日 自午後五時 至同十時  土・日曜 自午後○時 至同十時

推薦者芳名(順序不同)
結城素明 先生  川合玉堂 先生
瀧 正雄 先生  曄道文藝 先生
小林一三 先生  服部有恒 先生
北原白秋 先生  山口蓬春 先生
松岡映丘 先生  渡邉水巴 先生

金猊が遺した自筆の初個展趣意書の元原稿と思われるもの。ただし、この個展が実現した形跡はない。
尚、この原稿の書き出しにあたっては、美術史研究者の増野恵子さんのご助力をいただき、さらに読みやすいよう、m-louis が一部の表現を現代仮名表記にしている。