丸井金猊

KINGEI MARUI

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再現壁画 第2号壁 菩薩半跏像(羽石光志)

第二号壁(菩薩半跏像)再現壁画 全図

縦309.0cm × 横(上幅)154.2cm (中幅)149.0cm (下幅)149.6cm

第2号と第5号は菩薩半跏像で対面壁の東西同じ位置に配置されている。

法隆寺金堂壁画の「写と想像⇄創造」

第2号壁 菩薩半跏像
羽石光志(安田班)

私どもの担当は6号壁と2号壁であった。申すまでもなく、6号壁は法隆寺金堂壁画中の白眉で、その比類のない美しさはあまねく知られているところである。

三尊のお顔は安田靫彦先生がおひきうけ下さるとのことだし、前回の模写に経験を持たれる吉田善彦さんも加わっていられることゆえ心丈夫とはいうものの、さて初めてコロタイプ写真に向ったときは、正直のところ、はたしてどの程度までこの名画の美しさを再現し得るか心もとない気持においやられたものである。

順序としてまず壁の下地作りからはじめることにした。コロタイプの上に明暗二色の胡粉(ごふん)で剥落のあとを丹念に起こし、さらにその上を胡粉でたたいて平面にする。この根気を要する単調な作業は、壁面が大きいだけに思いがけない日時を要した。

模写にとりかかったのはそれからである。ところが下地作りのためにほとんど下のコロタイプの部分は消えてしまっている。これを描き起してゆくために、さらにその上から新しいコロタイプ写真を重ね、それを上げさげしながら写してゆく方法をとった。つまり、従来の、紙を上に重ねて写してゆく、いわゆる上げ写し法の逆をやったのである。時間はかかるが、このやり方が最も忠実な方法だと信じたからであった。

今回の模写中で最も感激したことは、なんといっても六号壁の中心をなす三尊が、深きおそれと緊張のうちに線から色へと進むにしたがって、ようやくその美しい御姿を現してゆくそのありさまであった。

初めに、おそらくはこの壁画の描かれた当初に用いられたであろうと思われる、緑青、群青、朱、黄土などの原色を置き、それを漸次古色に押えてゆく方法をとったが、まずその原色を配してみると、思いがけなくも描かれた当初の美しい片鱗が発見され驚かされたことは一再に止まらない。ことに観音の腰の部分の衣の文様の美しさは、まさに蜀江錦(しょっこうきん)をおもわせるものがあった。

第2号壁 菩薩半跏像(コロタイプ印刷)2号壁はさほどでもないが、三尊をめぐる、 一見空間かとも思えるほどの剥落は、下方に向うにしたがって特に甚だしかった。コロタイプを頼りに剥落のあとをたどってゆくと、本尊の背後から上部にかけて、菩提樹(ぼだいじゅ)(?)とみられる葉の線描が一面にあり、台座の下からは一茎分岐の蓮であろう、シンメトリカルに左右に延び、両脇侍観音のうしろから下方にかけて大小の菩薩17体が壁面いっぱいに描きこまれていた。思うに上部の8体と合せて25菩薩をなすものであろう。

中央本尊の台座の真下のところに、縦に油のしたたりがのこっているが、油のためにかえって剥落をまぬかれたらしく、その汚染部に僅かに残る2菩薩の美しさは、かつてのはなやかなりし御姿をしのばせるものがあった。

ついで2号壁であるが、この壁面は比較的当初の全容が保たれており、小壁中最も華麗な色彩が残っている。菩薩のお顔の中央、額から唇の下あたりにかけて大きな壁の亀裂がある。最初菩薩のお顔を美しく出すためにもこの亀裂はこのまま描くべきではない、当然弱く押えるべきだとの説により、それに従ったのだが、さて描上ってみると菩薩の表情にたいへんな違いが出てくることがわかった。そこでやはりコロタイプ通り強い線をもって描起すことにした。

くれないの裳から下方台座にかけては、剥落と亀裂による、あたかも朱、緑青、群青などの原色をちりばめたような複雑な美を示している。再現にもっとも日時を費やしたのもこの部分であった。

思えば、今まではいわば傍観者として眺めていたこの壁画に、 一年の間、 一途に模写の仕事に立ち向ったおかげで、かつては気づかなかった数々の多幸な発見にめぐまれたのである。線描、賦彩(ふさい)の妙、構想の雄大さ、そして制作当初の絢爛(けんらん)目をうばう偉容を教えられたのである。

昨年2月発足以来、困難苦渋に満ちた一年であり、なおかつ不満の点が数多く残されている。しかしながら、何はともあれ、このたびの大事業に参加させていただき、コロタイプ写真をたよりに遅々として進まぬ筆にいらだちながらも、時として思わぬ発見に胸おどらせ、あるいは自分の至らなさに眠れぬ夜を過したりしながら、ようやく一応の務めを果し得たことは、画家として大きな冥利だと私は思っている。私にとっては生涯二度とない大きな試練でもあったのである。

法隆寺再現壁画 大型本(朝日新聞社・1995年10月刊行)より

赤色下線がピックアップフレーズ、緑色下線は候補フレーズ

第二号壁(菩薩半跏(はんか)像/半跏思惟(しい)菩薩像/半跏形菩薩像 (*1))解説

縦309.0cm × 横(上幅)154.2cm (中幅)149.0cm (下幅)149.6cm

法隆寺金堂壁画 第2号壁 菩薩半跏像
Zoom 法隆寺金堂壁画 ㊧第2号壁 菩薩半跏像 ㊥第5号壁 菩薩半跏像(反転) ㊨同5号壁

2号と5号は半枷菩薩で対面壁の同じ位置にともに堂内に向かう姿で美しく描かれる。両者は同じ原型を反転して用い、像高もほとんど両者一致している。

第1窟 蓮華手菩薩像 原画:荒井寛方筆 木版色刷 第1窟 蓮華手菩薩像

この菩薩は西インド・アジャンター石窟群の壁画「蓮華手菩薩」にみる聖索(神線ともいう)を左肩から懸けていて注目される。聖索とは吠陀(ヴェーダ)の学習を終了した者にのみ授与される斜めにかけられた神聖な紐のことを指し、法隆寺金堂壁画の2号・12号の菩薩にその類例をみることができる。

法隆寺再現壁画 大型本(朝日新聞社・1995年10月刊行)より

丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1f 展示プラン

法隆寺金堂の東側に位置する第2号壁と同様に丸井金猊ラボ∞谷中M類栖/1fでも東側に配置するには、展示スペースの東側にピアノがあってその奥には踏み込みづらいので、ピアノの手前天井にあるライティングレールを利用して、レギュラーサイズのタペストリー(120×60cm)にして上から垂らすことにしました。

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※著作権の都合で、法隆寺金堂壁画の複写画像はモザイクを掛けています。

画家の報告 clip ピックアップ×2

下地作りのためにほとんど下のコロタイプの部分は消えてしまっている。これを描き起してゆくために、さらにその上から新しいコロタイプ写真を重ね、それを上げさげしながら写してゆく方法をとった。つまり、従来の、紙を上に重ねて写してゆく、いわゆる上げ写し法の逆をやったのである。時間はかかるが、このやり方が最も忠実な方法だと信じたからであった。

菩薩のお顔の中央、額から唇の下あたりにかけて大きな壁の亀裂がある。最初菩薩のお顔を美しく出すためにもこの亀裂はこのまま描くべきではない、当然弱く押えるべきだとの説により、それに従ったのだが、さて描上ってみると菩薩の表情にたいへんな違いが出てくることがわかった。そこでやはりコロタイプ通り強い線をもって描起すことにした。

主催者メモ

第2号壁「菩薩半跏像」は安田靫彦と師弟関係にあった羽石光志(はねいし こうじ)氏が安田班の一員として手掛けられました。明治36年(1903年)の生まれで、明治17年(1884年)の安田氏とは19歳差で、64歳にして昭和42年(1967年)の壁画再現事業に携わられたことになります。昭和14年(1939年)の模写事業には関わっておられず、法隆寺金堂壁画の模写ということではこのときが初めての関与で、しかし、その前に国宝伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)の模写など、古画の模写や復元事業にも多く参加され、模写の実践経験豊かな画家でした。

栃木県立美術館「近代歴史画と羽石光志」図録(2002年) (*2) には〈ご家族によれば「文章を書くくらいなら絵を描く」と羽石は言っていたそうである。短歌を詠むぐらいであるから文章が不得手というわけではないだろうが、確かに遺稿は少ないようだ。以下に入手できた彼の執筆原稿を引用して掲載しておく。〉とあるように、そこに掲載されたのが6つの寄稿文でそのうちの一つがここでも引用した法隆寺再現壁画 大型本(朝日新聞社・1995年10月刊行)となります。

安田靫彦の前にもう一人、近代歴史画の父・小堀鞆音(ともと)にも師事し、最後の近代歴史画家と言われた羽石氏は、第1号壁を担当し、日本画の革新運動の先頭に立って活動した吉岡堅二氏とはだいぶ趣の異なる堅実なタイプの画家ということになりますでしょうか。そのまるでタイプの異なる画家による模写が法隆寺金堂の東側壁面に並ぶというのが面白いところで、しかも二人の模写画を並べてみても然したる違和感を覚えないところが両者流石の偉業というところなのかもしれません。

また、先の羽石氏の遺稿が少ないことに関してはそのことが理由になるかはわからないが、羽石氏の金堂壁画模写についてのテキストには理念的なことよりも具体的な作業についての言葉が多く、興味を引きます。

特に半跏形菩薩の顔に出てしまった壁の亀裂をどう処理されたかは赤字引用文を直接お読みいただくのが最もリアリティを感じられるかと思います。明治17年(1884年)の桜井香雲(こううん)の模写に大正11年(1922年)昭和7年(1932年)鈴木空如の模写画は亀裂は亀裂として描かれ、昭和10〜12年(1935-37年)に便利堂が撮影・制作したコロタイプ印刷の複写画像にも当然亀裂が写されています。しかし、昭和12年鈴木空如作の2号壁は亀裂が目立たないように描かれました。そして羽石氏も一旦は亀裂を弱く押さえる方針で作業に入りますが、描く過程で亀裂を隠す方に違和感を覚え、コロタイプ印刷の線に従って亀裂を描く方に方針転換します。この転換に氏の想像力は立ち現れ、模写という創造をより高い段階のものとしたのではないでしょうか。

昭和46年(1971年)羽石氏は日光東照宮の国宝陽明門の天井画、狩野探幽筆《双龍図》復元の仕事に3年間携わります。法隆寺金堂壁画の模写とは異なり、完全な復元模写の工程に従わなければならなかった氏は、東照宮に通うという移動と季節の移ろいの中で想像力を掻き立てられ、自身の創造を見つめ直すこととなります。

かつては東照官の結構善美の建物が、いたずらに装飾過剰の如く感じられたこともありましたが、こうして毎日のように眺めているうちに、日光を知らずして結構を語るなかれといったような使い古された言葉も実感として迫るようになってまいりました。遠くから眺めているときよりも、むしろその中に飛びこんで、建物の一隅や塀の一部を巨細に見たとき、人の気ずかぬところにも心のこもった深い考慮の払われていることがわかり、随所に新たな喜びを見つけることが出来るのでした。
 あの善美を尽くした御本殿の雰囲気とは対照的に、眠猫のところから坂下門を一歩奥社参道に踏み入るとき、今までとはうって変わった清々しい杉木立を経って上り坂になってゆくあたり、そののぼりつめたところに鎮まる奥社拝殿は墨と金といふ極めて単純な色彩構成で思わず襟を正さずにはいられないような神厳さに溢れております。
 東照宮の結構善美はこうしたいくつかのすぐれた要素が緊密完璧に構成されているところにあるとつくづく思うのです。私の仕事もやがではこの大構成の一部として溶けこみ、生きつづけていってくれることを想うとき、何かみのひきしまる思いがいたします。
〉 (*2)

*1)菩薩半跏像は、資料によって表記が異なり、半跏思惟菩薩像は宝塚市立中央図書館「宝塚歌劇のあゆみ」展資料での記載、半跏形菩薩像は法隆寺再現壁画 大型本(朝日新聞社・1995年10月刊行)で記載されており、本稿および金猊サイト内では東京国立博物館 特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音図録Wikipediaでの記載表記に従って「菩薩半跏像」で統一することにした。
*2)栃木県立美術館「近代歴史画と羽石光志図録(2002年)

序    法隆寺金堂壁画の「写と想像⇄創造」
第1号壁   釈迦浄土図・・・・・吉岡堅二(吉岡班)
第2号壁   菩薩半跏像・・・・・羽石光志(安田班)
第3号壁   観音菩薩像・・・・・平山郁夫(前田班)
第4号壁   勢至菩薩像・・・・・岩橋英遠(安田班)
第5号壁   菩薩半跏像・・・・・吉岡堅二 稗田一穂 麻田鷹司(吉岡班)
第6号壁   阿弥陀浄土図・・・・安田靫彦 吉田善彦 羽石光志(安田班)同壁部分紹介
第7号壁   聖観音菩薩像・・・・稗田一穂 麻田鷹司(吉岡班)
第8号壁   文殊菩薩像・・・・・野島青茲(橋本班)
第9号壁   弥勒浄土図・・・・・橋本明治(橋本班)
第10号壁 薬師浄土図・・・・・前田青邨 守屋多々志(前田班)同壁部分紹介
第11号壁 普賢菩薩像・・・・・大山忠作(橋本班)
第12号壁 十一面観音菩薩像・・前田青邨 近藤千尋(前田班)