丸井金猊

KINGEI MARUI

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2008年 いまあざやかに 丸井金猊展 図録

記憶の中の丸井先生
溝口泰信(画家・金猊の甥)

 私が小学校三・四年の頃だったと思う。1964年か、その少し前。
「三鷹の丸井先生が福島に来る」と父が言う。
 
 東京美術学校の日本画科を卒業して、現在は神奈川で高校のデザイン科の先生をされている、と。美術学校では「卒業制作(の首席)は、杉山か、丸井か?」と言われるほど優秀だった、とも父は言った。そして、その丸井先生の三鷹のお宅に父は若い頃下宿していて、先生から大いに薫陶を受けたこと、その家には先生の大きな屏風絵の作品や朱塗りのグランドピアノがある等々と伺っていた。先生は父にとっては義兄、私からみれば伯父にあたるわけだが、たんなる親戚の伯父さんというよりは、なにやら厳めしいイメージが父の話から漂ってもきていた。いったいどんな怖そうな人が来るんだろう・・・
 
 教え子の高校生数名を引き連れて来福した先生は、黒のベレー帽、蝶ネクタイに角縁眼鏡、長身痩躯の眼光鋭い紳士であった。しかしその怖そうな先生はにこやかに私の両親と談笑し、さらに教え子を交えた夕食のあと、小学生だった私の「座敷のテーブルを使ってみんなで卓球しようよ!」というわがままを快く受け入れてくれ、生徒ともども卓球に打ち興じてくれさえした。意外とこの伯父さん怖くないぞ・・・
 
 そしてそのあと、父に連れられて三鷹の先生宅に初めてお邪魔した。出迎えてくれた丸井先生は、「よく来た、よく来た」と私たち親子を招き入れてくれた。さだゑ伯母様とはその時が初対面ということになろうか。美しい伯母さんだな・・・
 
 父の福島からの手土産が「太陽堂の麦せんべい」で、丸井先生が「こういうのは湿気らないうちに食べないと」と言って早速開けたのを私がむしゃむしゃとあらかた食べてしまったような記憶がある。家の中を案内されると、そこには話に聞いていた巨大な屏風絵、そして朱塗りのグランドピアノ、さらに書棚を埋め尽くす蔵書の数々。すごい・・・それからは時には父に連れられて、時には単身、三鷹の先生宅を訪れた。
 
 隆人くんがまだ美鷹さんのお腹の中にいたときのこと。居間のテレビがアウシュビッツかなにかの凄惨な画面を映し出していた。それを見た丸井先生が「あー、こんなの見たら、みーさんやお腹の子供に良くないよ、消して消して。」さだゑ伯母さん「ほんと、ほんと」と、テレビを消す。娘の初産を気遣う優しい両親。そんなひとこまが印象に残っている。
 
 1973年、美術大学受験のため上京した私は、先生宅に宿泊させてもらい、そこから試験会場に臨んだ。試験前夜の夕食の折り、先生は若い私にいろいろと美術談義をしてくださったが、そのなかで印象に残っているのは「グレー(灰色)というのは非常に面白い色だ」と仰っていたこと。翌日のデザイン科実技試験の平面構成で、私は早速様々な色調を帯びたグレーを用いて作品を仕上げた。我ながらなかなかの出来映え。試験の結果は・・・残念、失敗の巻。それでも第二志望の大学に進んだ私は、念願の東京での学生生活を送ることになった。

 独学で油絵を描いたりしながら、ときおり先生宅にお邪魔すると、いつも先生は歓迎してくださった。そして夕食をともにしながら(そして軽く飲みながら)様々な美術に関するお話しを伺った。たとえば、「小林古径の『猫』、あれは薄ーい胡粉を何十回となく、繰り返し繰り返し塗っている。」先生があの作品の制作現場に居合わせたのかどうか、今となっては確かめようがないけれど。あるいは、話が東山魁夷のことに及んだときに、「あの人の色彩は、色覚異常というのではないけれども、なにか独特のものがあるようだ。」等等。
 
 もちろん絵画以外の、例えば仏像や、建築、工芸といった分野まで先生のお話は広汎多岐に及び、その該博な知識にはただただ圧倒されるばかりであった。そうして先生からの感化を受けながら、もともと美術を専門的に学びたいと思っていた私は、在籍していた大学を中退して武蔵野美大で日本画を専攻することとなった。
 
 なぜ日本画を選んだかということについては、いくつかの理由があるけれども、やはり丸井先生の存在が重要だったと思う。私が日本画を学ぶことになったことを丸井先生は大いに喜んでくれた。なにか出来たらもってきてみなさい。自分も久しぶりに筆を執ってみようかと思う、と。しかし、なかなか先生に見ていただけるような、納得のいく作品は出来なかった。
 
 二年次になって、ようやく自分なりにはよく描けたと思う鶉の写生を持って恐る恐る先生に見て頂いた。それを見た先生は、「うまい!じつによく描けている。」と、手放しで褒めてくださった。内心ほっ・・・(ずっと後になってから、先生の美校時代の植物写生を拝見したが、その描写力に私は驚嘆した。)
 
 いま振り返ると、あの頃もっともっと足繁く先生宅に通って作品を見ていただいたり、美術に関する様々なお話しを伺っておけばよかった、と思う。鶉の写生を見ていただいてからほどなく、先生は他界されてしまった。私の卒業制作を見ていただけなかったことが残念でならない。いったいどんな批評をしていただけたろう、と。
 
 先生の作品については、私も前述のように小学生の時からそのいくつかは見てきていたし、また後年、隆人くんの尽力によって陽の目を見た多くの作品に接することができたわけだけれど、いまだにそれらの作品を十全に理解しているとは言い難い。それは先生の作品世界が、卓越した描写力と高度な表現技法を土台にしながら、こちらの物指しを遥かに超えた、壮大な美術の時空間を背景に紡ぎだされていることにあるのではないかと考える。もっと勉強しておけばよかった・・・
 
 このたび先生の故郷一宮市で作品展が開催されるという。また先生の作品群にじっくりと接してみたい。こんどは何を読み取ることができるだろう。

2008年一宮市博物館開催の特別展「いまあざやかに 丸井金猊展」図録に寄稿された金猊の甥の溝口泰信さん(画家・元福島県立美術館学芸員)の金猊論。本論は校正が入る前の原文を採用し、一部図録と記述の異なるところがあります。