丸井金猊

KINGEI MARUI

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2008年 いまあざやかに 丸井金猊展 図録

祖父の皮膚
丸井隆人(孫・デザイナー)

 昭和54年(1979年)7月12日早朝、同居していた母方の祖父・金蔵(雅号=金猊)が病院で亡くなったと父に起こされて知ったとき、小学三年生だった私はキョトンとしたまま、事もなげにいつものように学校に出掛けていったように記憶している。簡単に言えば、私は「死」という現実をまるで理解していなかった──ということでもあるのだが、それは病理解剖を終え、冷たくなった体で帰ってきた祖父の屍と対面しても、そう変わるものではなかった。通夜の間も動かなくなった祖父の額や頬を生前と同様に暢気に突っついたりしていたにちがいない。
 そんな無邪気もいいところの自分を一変させたのが、焼き場に行ったときだった。そこで祖父が焼かれる。より具体的に言えば、祖父の皮膚が焼かれ骨になってしまう。その事実に私はひどく狼狽え、泣きじゃくり、吐きながらその場から走って逃げた。どうやら皮膚の喪失という視覚上の変質が、ようやく自分に「死」の何たるかを悟らせたのだ。そのときの恐怖感のようなものは大人になってだいぶ薄れたとも言えるが、現在も身近な人の訃報に接する度に、祖父の死を尺度に自身を推し量ろうとしている自分がいることに気づかされる。

 娘二人で男児に恵まれなかった祖父は初孫である私が男だったことを大層喜び、溺愛したということは幼いながらに感じていたし、周囲からも度々聞かされていた。私が生まれると早速喜び勇んで、近所でも群を抜く高さの鯉幟を買ってきて、それから亡くなるまで毎年端午の節句にはまさしく唱歌通りの屋根より遙かに高い鯉幟のポールを庭に立て続けてくれた。
 母がピアノ教師をしていた関係で、私は幼稚園・小学校と帰宅してから晩御飯までの間、ほとんどの時間を祖父母と共に過ごしていた。幼い頃から昆虫好きだった私に本格的な標本の作り方を教えてくれたのも祖父だったし、木の高いところで鳴いている蝉を捕まえるため、捕虫網に竹製の延長棒を拵えてくれたのも祖父だった。他にも竹とんぼを作ってくれたり、自転車の練習にずっと付き合ってくれたり。そうした話は思い起こせば枚挙に暇がないが、それらは初孫誕生に浮かれる好々爺の振る舞いとしては特別珍しいものではない。ただ一点、祖父の境遇を振り返ったとき、私にとって不思議なのは、絵の手解きを受けた記憶がまるでないということだった。
 ちょうど私が生まれた頃に二十数年勤務した県立神奈川工業高校(以降「神工」と表記省略)を定年退職した祖父は、昭和13年(1938年)に描いた大作屏風『壁畫に集ふ』以来握っていなかった絵筆を再び握り始めている(※1)
 だから、私自身も祖父が画家であるという認識は子供ながらにしっかり持っていた。それにふだんはとことん自分の遊びに付き合ってくれる祖父も画室に入るときだけは特別で、母や祖母の口から「今、お爺ちゃんは絵を描いているから近づいてはいけません」という具合に、子供が画室に近づくことを禁じられていた。その記憶がしっかりあるので、後年、祖父が厳格で四角四面な人柄だったと周囲から聞かされても違和感は覚えなかったが、しかし、多くの人が共通して語る祖父像と自分の知っていたそれはどこか掛け離れていた。祖父は孫の私に対しては呆れるほどに寛容で、少なくとも私の前に厳しい教育指導者としての顔を覗かせることはなかったのである。
 
 1997年に企画した金猊初の遺作展「丸井金猊とその周辺の人たち展」では、世間に知られていない祖父の輪郭を伝わりやすくするため、金猊とゆかりのあった人たちに祖父へのメッセージを依頼し、文集を作成している(※2)。そのうちで神工卒業生にお願いしたメッセージの幾つかには、授業で正倉院の宝物「平螺鈿背八角鏡」図版の模写を課題として出された話が、往事を懐かしむように綴られていて目を見張る。この宝物をご存知ならば、如何にその課題が難題かは容易に察しが付くことだろう。アール・ヌーヴォー装飾の比ではない。それを工業学校の図案科とはいえども、高校生相手の課題としていたのである。自堕落で無気力な高校生活を送っていた自分からは考えも及ばない世界の話である。
 先述したように私は祖父から絵の手解きを受けた記憶がない。昆虫標本や竹とんぼの作り方を教わった記憶はあるが、あくまでもそれは私が自発的に興味を抱いたものに対してであり、率先して教養めいたことを私に躾けるようなことはなかった。例えば私がクワガタの脚のフ節部分の粒々形状を著しく誇張してスケッチしていても、そのバランスの不正確さを指摘するようなことはせず、好きなように描かせ、むしろ褒めてくれさえしたように思う(※3)。それが何故かは知り得ないところだが、そんなことから私は厳格なはずの祖父と多くの時間を共有しながらも、年齢の割にのびのびし過ぎなくらいの無垢な少年時代を送り、高校を卒業するくらいまでは祖父の早熟ぶりとは対照的に、芸術・文化領域とは無縁の、これといった目標もない無為な日々を唯々やり過ごすことになる。
 祖父の死後数年して、私は祖父が客間として設計し、晩年は書斎代わりにも利用していた十畳間を自分の部屋として与えられる。その部屋の一角には祖父存命中から先の屏風『壁畫に集ふ』が右側二曲分を折り畳み、残りの二曲を直角に立てて見せる形で設置されていた。タイトルに従えば、壁画として描かれた富士山を背景に七人の女性たちが集う側の面である。それはベッドで仰向けになると枕の位置から半間ほど後方に聳え、通常真正面から見るのとは逆さまに下から顔を覗き込むような恰好になる。消灯しても闇に目が馴れてくれば、天井板の枡目の手前で仄かに女性たちの顔が浮かび上がる。それが私にとってはごく普通の閨での日常的光景だった。それは屏風というよりも壁の一部であり、作品というよりは自分の身体における「皮膚」のようなものだった。化粧趣味のない自分にとって皮膚は大事なものなのだろうが、いちいちそれを丹念に顧みることなどしたりはしない。それが突如、鑑賞対象となる日がやってくる。それは祖父の死から17年過ぎた1995年の秋、祖母が亡くなってほどなくしてのことだった。
 母と遺品整理を始めると、これまで眠っていた祖父の作品がぞろぞろと家のあちらこちらから出てきたのである。それまで『壁畫に集ふ』以外では床の間に飾られていた左右を向いた対の馬の絵と、晩年に描き遺した六作のうちの五点しか見たことがなかったのだが、デスクに遮られて開かれることのなかった書棚下からは東京美術学校(現東京藝術大学)時代の植物写生がポスターを丸めたかのような状態でごそっと出てきた。さらに書棚奥を探ると仮題『婦女圖』の軸作品がまるで猥褻本でも隠してたかのようなところから見つかる。他にも絵具箪笥の引き出しからはこれまたくるっと丸まった剥き出しの絹本が六点。蔵の二階の荷物置きの背後からは仮題『観音前の婚姻圖』の屏風が未表装のままで、また、蔵の天井直下の挿物を渡した梁の上からは思いきり埃を被った仮題『白鷺圖』の絹本が、これも造作なく丸められた未表装の状態で出てきたのである。
 しかし、私にとって『壁畫に集ふ』が突如として鑑賞対象になり変わったのは、それら長年眠り続けていた作品群の出現によってではない。私が目を奪われたのは、それらの作品と共に蔵から出てきた『壁畫に集ふ』を始めとする本画と同寸の下絵の存在だった。お中元用の箱に収まるようA3サイズくらいに折り畳まれた紙に、墨もしくは鉛筆で描かれた下絵は経年変化で茶ばみ、本画のような華やかさがあるとは言い難い。けれども、線の描き消しを繰り返し、ところによっては紙を切り貼りして、草稿に草稿を重ねた痕跡の表出する下絵は、私には完成し落款を入れた本画以上に刺激の強いものとして映った。特に『壁畫に集ふ』の下絵は、それが私の中での「皮膚」のように感じられていた対象だっただけに──いや、だからこそ、私はそこに自分が直接的には知らなかったはずの祖父の厳格な気風に初めて接するような、そんな心持ちにならずにはいられなかった。
 その興奮は即座に祖父の遺作展をやらねばならないという意志となり、1997年6月、地元の三鷹市美術ギャラリーの一室を借りて、まずは「<所有>の所在」展という展示を行っている。その展示は4ヶ月後に同ギャラリー全館を借り切って開催した「丸井金猊とその周辺の人たち展」のプロローグとなるものであったが、私個人としては『壁畫に集ふ』の下絵が出てきたときの興奮と戸惑いをそのまま展示空間で提示してみようという自己実験に近いものだった。本画『壁畫に集ふ』とその下絵を併置したのである。
 ところが、その展示機会は私に更なる戸惑いを求めた。それはこれまで自分の部屋の壁の一部として「皮膚」化していた屏風の女性たちが、展示空間で平になり、スポットを浴びながら開かれると、一斉にこちらに恍惚とするような眼差しを向け、私に見入ることを強いたのだ。それはある意味で私が通常の作品鑑賞の視点に立ち返った瞬間だったのかもしれない。しかし、その傍らではついさきほどまで自分を興奮させていたはずの下絵が、地味ながらも清廉堅実な視線を私にくべ、我に返る余地を残してくれている。逃げ場のない混乱を自覚した私は、もはや「作品」という位相に対して開き直る以外なかった。

 以降、私は自分の審美眼に頼ることを禁じるだけでなく、祖父の遺志や心情といった要素までも一旦は度外視して、祖父が手掛けたと思われるものすべてを「リソース(※4)」と見立て、「作品」という線引きをせずに情報提供もしくは陳列していこうというスタンスに立つようになった。その視座は、どこか祖父がかつて私に教えてくれた昆虫標本を作る手つきを思い起こさせてくれる。名前を調べ、サイズを測り、個体ごとに共通のフォーマットで淡々と記録・分類していく。もしかするとその行為には、小学三年生の夏、焼き場で祖父の皮膚の変質に怯えた記憶も綯い交ぜとなっているのかもしれない。標本は皮膚が変質し始める前の、生と死の境界を保存することを志向しているものだから。
 しかし、標本もまたいずれは風化し劣化していく宿命を背負っている。その意味で、祖父のリソースをより良い保存環境に、そしていつでも手軽に参照閲覧できるようにと、2004年祖父が東京美術学校時代に下宿していたこともある谷中(東京都台東区)に居を移し、その一階をギャラリースペースとした。もちろんその空間は『壁畫に集ふ』を立てて余りある約3.5mの天井高が取られ、四曲広げて展示することも可能なスペースとなっている。
 二年前からは、毎年秋にその地域一帯で「まちじゅうが展覧会場」となる「谷中芸工展」に参加し、これまでの展示機会とはまた違う雰囲気の中で、祖父のことを知らなかった人たちにも金猊リソースを観てもらえる楽しみが増えた。無理のない継続ということを第一に、毎年少しずつ出品リソースを変えながら、行く行くは下絵を展示する機会も作りたいと考えている。
 そんな折、祖父の故郷・愛知県の一宮市博物館で、館企画による祖父の遺作展が開催されることになった。祖父のリソース自体はここで初めて私たち遺族の手を離れ、独り立ちした作品として展示されることになる。この時点において、私はこれまで自らばかりか祖父に対してまでも掛けてきた抑圧を解き、「いまあざやかに」と題される展覧会場を気ままに遊歩していることを夢想するのである。