丸井金猊

KINGEI MARUI

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1997年 その周辺の人たち展文集

叔父の思い出
浅野正夫(甥)

 私が子供の頃は遊びから帰れば、タベの釜戸の前に行き、母とその日の事などを話すのが日課であった。多分、昭和13、4年頃、母の実家から帰った直後、夕餉の支度に忙しい母が「東京の叔母さんの髪(断髪)を見たろう。あれは金さ(叔父)の好みだそうだ。さっぱりしていいだろうなあ!」と言った。当時、田舎の女性の髪は長いものと決まっていたから、子供心にも母の言うことが分るような気がした。

 一方、家のアルバムには葉書大の叔父の絵の写真があり、本物には昭和27年、叔父の家でお目にかかったが、その絵に断髪の叔母を見た。ああ!ここには叔父の叔母へのロマンスが込められていると、思わずハッとするものがあった。

 一昨年叔母が亡くなり法要の席で、結婚前叔父が叔母にせっせと手紙を書き送ったと言う思い出話が出たとお聞きした時には、左もありなんと思い、叔父と叔母に喝采を贈りたい気持ちに満たされた。合掌

 私の母は九人兄弟の2人目、叔父は6人目、結婚までの10年程一緒に過ごしている。兄弟が多ければ特に上の女の子は、母を助けて弟たちの面倒を見たのであろうし、弟たちも何かと姉を頼りにし、小子時代の兄弟が経験しない兄弟愛を育んだに違いない。

 私が小学生の頃、タ方まで遊んで帰ると母は釜戸の前に座っている。私も隣に座ってその日の出来事を話す。そんな時の母の話に、同じ兄弟でも性格の差があるものだと、5人もいる弟を例に話してくれた。金さ(叔父)は小さい頃からお洒落で、身だしなみも行儀もよかったと具体的に話してくれた。それは多分、私が正反対のための母の戒めであったであろうが、その後叔父に会う度に、その話を思い出した。叔父が白い背広にパナマ帽姿の時など、子供心にまぶしいばかりだった。

 叔父が美校に入った最初の夏休み、父が母の実家に行くと叔父が新聞紙大の紙2枚を、壁にピンで止め筆で太さ1ミリ位の線を1センチ間隔位に、1枚は横に1枚は縦に一気に書いている。聞けば線の太さと間隔が一定で、少しの乱れもあってはならないとの事。そんな事が出来るのかの聞けば、これが出来なければ絵を書かせて貰えない。との返事、まるで取り憑かれた様に書いていた。何んでもその道の専門家になるのは生易しいことではない。

 これは父の口癖で何度も聞いたが、叔父と話をしていると、時々絵に対する情熱、或いはそれ以上の執念のようなものを感じた。

 我々の親の時代は戦争と敗戦の痛手を真正面から受けながら、その克服に立向かった世代であるが、一面では青春時代を大正の伸び伸びとした雰囲気で教養を磨いた世代でもあった。叔父は勤めを止めてから絵筆を持つ気になっていたようで、もう20年長生きしてくれたらと思われてならない。

丸井金猊とその周辺の人たち展(1997年)文集に寄稿された金猊の甥の浅野正夫さんのメッセージ。正夫さんは親族のなかでも最も激しく金猊と議論を交わしていたという。