丸井金猊

KINGEI MARUI

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tea time わが母校(出典不明)

質・量ともに大学レベルに達していた図案科
浅葉克己(神工 工芸図案科 8期生)

 金沢文庫の北条氏の菩提寺・称名寺の境内に建つ家に生まれた。浅葉家というのは三浦一族に連なり、本家は称名寺の檀家総代を務め、その屋敷は別名「浅葉砦」ともいわれていた。

 小学校に上がる前、境内に写生にくる小学生の引率の先生から画用紙を一枚もらい、見よう見まねで描いた絵を「お前、天才だ」と誉められ、小学一年の作文には「大きくなったら画家になりたい」と書いていた。

 中学三年になり、進路をどうするかという頃になっても、進学を身近な問題として捉えてはいなかった。毎日、海をみながら育ったハマっ子としては、日本から外へ出たい、海の向こうの国へ行ってみたい、の一心であった。卓球に打ち込み、好きな絵を描きながら、卒業すれば六人乗りの船長の資格がとれるというだけの理由で、陸上自衛隊武山駐屯地の隣にある県立三崎水産高校への進学を漠然と考えていたときだった。

「船乗りもいいが、船のデザインという仕事もある。君は絵の才能があるのだから、図案科ヘ行った方がいい」

 図工担当の志田滋先生のことばで県立神奈川工業高校図案科(現デザイン科)の存在を知った。当時、図案科はここと東京都立工芸高校。ぼくが通学できるところには、この二校しかない。秋の文化祭に行って、デザイン彫塑室で先輩たちの作品を見て、目から鱗が落ちた。こういう世界もあるのかと本当にびっくりした。

 学校は東横線の東白楽駅のホームから一望できた。米軍の捕虜収容所に当てられていたという木造校舎で一般教育を受け、専門教育は真新しい鉄筋校舎で受けた。線路を挟んだ小山には、新興宗教の孝道教団本部があった。昼休みとかにはその小山によく登った。ヨコハマの港がよく見えるのだ。

 図案科は一学年25名で、うち女性は3名。人数は少ないが仲がよく、卒業した20名全員がデザイン関係に進んだ。村瀬秀明、柳町恒彦の両君とは特に親しく、ぼくを含め高校の同級生二人が東京アートディレクターズクラブの会員(というのは、ちょっと他にはないだろう。専門教育の先生は三名で、丸井金蔵先生には日本画や伝統的な図案、レタリングの基本などを。中里貞浄先生には写真から工業デザインを。佐藤努先生にはデザインの最先端の思想的なことや現代絵画まで幅広く学んだ。

 高校時代はとにかくいろんなことをしたくてクラブ活動にも精を出した。図案科は全員美術部へ入部させられたが、ぼくは他にも水泳、柔道、卓球など体育会系クラブに、また学外のポーイスカウト活動もやっていた。在学中の18歳のときには、日本で98番目の「富士スカウト」になった。横浜市の卓球大会では慶応大学に敗れたもののダブルスで準優勝したし、三年連続で体育委員もした。それよりなにより、デザインの勉強は朝から晩まで我ながらよくしたと思う。学校から家へ帰るのは夜の11時頃、ほとんどが終電車だった。

スタインベルグの影響

 従軍記者だったスタインベルグに影響されて、将来はイラストレーターになりたいと決意して、模写を始めた。休みの日には東京。銀座の月光荘に通い、黄色い表紙のうす紙のスケッチブックを買い求め、習作の数は80冊にもなった。山下公園の前のアメリカ文化センターに毎月届くアートディレクション誌や『アメリカン・バザー」、4号で廃刊になった「ポート・フォリオ』などの雑誌や新刊書にもだれよりもはやく目を通していた。村瀬とは二人で船のスケッチに出掛けた。戦後の焼跡がまだ残っていた頃で、被写体は″希望に燃える外国船″といったところぅ教会や生糸検査場などの風景もよく描いていた。

 デザインのことなど何も知らなかった中学生が、高校のたった三年間で学んだものは、質、量とも大学レベルにまで達していたのではなかったかと思う。

 空腹を覚えると、学校の前の日光堂というパン屋で満たしていた。店には、おみっちゃんという小学五年生くらいのかわいい女の子がいた。あれからもう三十余年も経っている。おみっちゃんは今はどうしているのだろうか。

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