わきた・けんいちさんのBlog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」にて「特別展「いまあざやかに 丸井金猊展」」のご紹介をいただきました(魚拓)。実は最初チラシ画像と冒頭一段落目の文章が掲載され、「(続きは後ほど)...」となっていたので、その時点でこちらで紹介すべきか迷っていたのですが、待っていて正解でした。
わきたさんは m-louis と同タイプのエントリーもコメントも長文化しがちの方なのですが(^^;)、今回も少ない情報の中からブログの過去情報をたっぷり掬い上げて分厚いエントリーにしてくださいました。お忙しい最中、本当に恐縮の限りです。同じ長文タイプということで何となく想像できてしまうのですが、おそらくは書かれるまでに各種エントリーに当たられて、その時間は実際に書かれている時間よりも長かったろうと思います。本当にありがとうございました。
さて、そんな掬い上げエントリーの中でも谷中M類栖で自分が書いた「束の間の屏風対面」(2004年9月)のことは完全に忘れていました。改めてそれを読むと、今回の丸井金猊展の展示設営監修時に「壁畫に集ふ」と対面したときの心象と対比し得るところがあり、よくぞそのエントリーを掬い上げてくださったと感謝の意をさらに強めています。
その「壁畫に集ふ」と対面したときのことについては、館内情報はネタバレになるということからまだ触れてなかったんですが、5月19日朝刊の読売新聞・愛知版「丸井金猊特別展 遺族が会場訪問」で若干取り上げられていて、会期終了後にもう少し詳しく書くつもりでいます。
また、もう一つ、わきたさんが掬い上げてくださっているのが金猊が書いた妻・さだゑへの手紙「「妻への手紙〜「母さん」よ」で、これについてはお読みになられていない方は是非読んでいただければと思いますが、人によってはゲップが出るかもしれません(汗)
ともあれ、わきたさんはそこから「金猊の妻に対する深い愛情が独特なスタイルで表現されている」と読まれて、「壁畫に集ふ」の女性像と金猊の女性観の関係に目を向けられています。この「壁畫に集ふ」はさだゑと出会った後に描かれた数少ない作品のうちの一つですので、当然関連性は深いと推測できますが、金猊は自分の作品のことについて身内にはほとんど何も話さなかったので、本当のところは定かではありません。
ただ、「あさみ新聞にて」のエントリー後半でも書いたように、本展覧会で作られた図録に掲載された美術史家の山本陽子氏のテクストを読むことで、今まで自分の中で読み解けてなかった部分で幾つか見えてきたことがあり、そのことから金猊が筆を折ったことまで含め、推測の幅と奥行きがだいぶ広まったようにも感じています。それについても会期が終わってから、もう少し文献等に当たってまとめてみたいと考えてますので、乞うご期待のほど。
それにしても「根津と谷中を訪れる(2)-『Kai-Wai散策』巡礼-」は2006年の6月で、つまり曙ハウスがなくなってからもう2年経つんですね。あの日は途中退散してしまいましたが、それでも盛りだくさんの一日だったなと懐かしく思います。それとわきたさんのブログ告知があったおかげで、一宮市博物館の近くにお住まいだったことのある「漂泊のブロガー2」のいのうえさんのかつて暮らした場所を訪ねるエントリーが生まれそうで、それが非常に楽しみです。