マルキンさん(神工1970年卒・阿部信雄氏より)

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 丸井金蔵先生のニックネームは「マルキン」。申し合わせた訳でもないのに、皆が自然にそう呼んだように思う(しばしば敬称を略して)。神奈川工業高校には大勢の教師がいたが、マルキンさんは風貌からして異彩を放っていた。丁寧になでつけた髪、蝶ネクタイ。ダンディで、頭から指先に至るまで美意識に貫かれている、といった印象だった。

 私たちは入学すると先生から「工芸史」の授業を受けた。縄文土器から始まり、一年間で現代までの日本美術の流れを通観する主旨(のはず)だった。しかし、マルキンさんは教科書よりずっと詳しく細部にまでのめり込む。何年か前に修学旅行の引率で奈良に行ったときに、古寺の境内で拾った瓦のことなどに話が飛び、脱線することも毎回のことだった。中身が詳しい分、授業は遅々として進まず、一年経ってもまだ天平時代を渉猟中で、教科書の四分の一もめくっていなかった。しかし、いま思えば高校一年生にはもったいないような濃密な授業だった。

 マルキンさんの実習といえば、なんといってもレタリングだ。タイポグラフィはグラフィックデザインの基礎であり、レタリングはタイポグラフィの要なので、先生はことのほか熱心に教えられた。生徒の下書きを「この線はそうではない」と自ら鉛筆を執って直してくださる。熱心な先生が、気持ちを込めて線を引く。2H、3Hの固い鉛筆でぐいぐいと描く。鉛筆が厚いケント紙を突き破るのではないかとハラハラした、そんな経験をほとんどの生徒が共有しているのではないだろうか。

 マルキンさんのそうした情熱の賜物だろう、神奈工出身のデザイナーの方々は、総じてタイポグラフィがうまい。

 このようにマルキンさんの授業での逸話は枚挙にいとまがない。しかし、私が(私たちが)先生から教わった最大のものは、狭い教室に留まらない。先ほど校内の他の教師とは一見して違っていたと書いたが、当時の高校生から見ると、教師だけでなく、大人の世界にもマルキンさんのような人は見当たらなかった。今日ふうに言えばブレがないというか、自分のやり方に自信を持って、真っ直ぐに歩んでいる人。そういう人間の醸し出す強さ、背筋の通った美しさが、多感な年齢の生徒にじわじわと染みこんでいったように思う。

 当時は若者が大人に「ノン」を突きつけるのが、流行のように世を席捲した時代だった。グラフィックデザイン界でも、ポップアートの影響やサイケデリックなものが一世を風靡していた。そうした中、マルキンさんの授業に反発する生徒も当然いた。しかし、その反発した生徒でさえ、先生の一貫した姿勢には敬意をはらっていた。聞きかじりの理屈をならべても、かなわないものを感じていた。先生は細身でありながら、テコでも動かないようなどっしりとした重みを、全身で表す大人だった。

 1970年私は神奈工を卒業した。その年に先生の還暦を祝う会が銀座で催され、錚々たる顔ぶれの卒業生が先生を囲んだ。私も同級生と共に最年少で出席し、居並ぶ先輩たちの間で小さくなっていた。会の締めくくりに浅葉克己さんが大声で先生にエールを送られた。「フレーッ、フレーッ、マ〜ル〜キン!」と。ああ、浅葉さんの頃、あるいはもっと以前から、丸井先生は「マルキン」だったことを知った時だった。


阿部信雄 Nobuo ABE

1970年産業デザイン科卒業。
いくつかの会社を経て1981年独立。「どくだみ草」同人。

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