神工デザイン科ルネッサンス

Kanagawa Technical Highschool Design's Renaissance

─木材工芸科にもふれて──

神奈川工業高校工藝圖案科

 戦争中廃科の憂目をみていた工芸図案科が、終戦後の学制改革で三年制の工業高校として発足するに際し、木材工芸科とともに復活することになり、バラック建ながら機・建・電・電通の諸科と並んで新生の意気に燃え立ったのは、13年前の昭和23年春のことであった。旧制工業校から引続き高校へ切換った当時の諸科とは別に、木・図の二科はこの年新たな募集に応じて入学した生徒一年生だけで、そのうちには他の科からの転科者も若千あった。定員数は二科各々25名のところ、図案科7名、木材工芸科16名であったが、これで神工家族揃っての感激は現職員、生徒一同のみのものではなく、神工を護持するすべての人士の歓喜である筈のものであった。

 この年に私も赴任して来た。工芸図案科担当としてである。もともと私は本校と同類型の愛知県立工業学校図案科の卒業生であり、同校も中京名古屋に於ける名門校ながら、ひとしく戦災で灰燼に帰しており、本校と同様の復興を期して立ち上ろうとしていることを知るにつけても、本校への赴任は母校への赴任と同様で私にとって誠に感無量のものがあった。そして当時の山賀校長はじめ諸先生の逞ましい復興の意欲的な活動ぶりや、戦中戦後を通して最悪の条件下を切り抜けて来た若い生徒たちの純真な向学心を目前にすると、東京の住いからの遠い通勤や諸事不如意の物質的困難や、環境条件の不自由などかこってはいられなかった。当時工業高校とは言うものの、実習機械器具も工場もなく、満足な製図教室とてもなかった機械をはじめ各科の実情も、復活図案科のそれも同様であった。形ばかりは学級教室が揃っているとても、その一教室で、さあ講議をやれ、実験・実習をやれと言われて一体われわれはどうしたかである。

 当時、図案科の戦後版第一期の生徒数は前記の通りで、専門の教職員は私と岩田栄之助先生(嘱託講師)の2人だけで、木材工芸科には専門の先生すら無かった有様である。また、それぞれ専門の教科書も教具も皆無だった。第一、われわれの科に限らず新制工業高校としての各科の教育課程も学習指導計画も確立してはいなかったのである。われわれは先ず早急にそれぞれの教科目標からして確認、確立せねばならぬ実情にあったし、生徒を目前にして教材をととのえ、学習の筋道を立てねばならなかったのである。戦前、戦後を通して私には私なりに美育の向うべき道にも、造形、工芸教育の実際についても一見識はそなえていたつもりであった。しかし、新興の気運はいち早くみなぎっているとは言え、まだ荒みきった世相や物質生活の窮乏の中で、どうして効果的な学習指導が行えよう。私は2時間を要する通勤の途上、窓ガラスが一枚もなくて総板張りの東横線電車に揺られながら、じっと瞑目してきびしい教育的使命を思い方法を案じた。芸術造形の夢を追い、産業デザインの将来を考えた。ともすれば戦争中の圧迫感からの解放が先に立って、理想的、高踏的な審美性や抒情性を追う非現実のとりこになろうとする私の講義を生徒たちはどのように受け入れて呉れたであろうか。しかし、戸惑いつつも私の講義をかたずを呑んで聴いて呉れた第一期二期の教え子に、今も会うたび限り無い親近の体温を感じとることができる。

 しかし、しかし、当時電車内の中吊ポスターには○○質店とか、アメリカ中古服市とかが目につく位のもので、沿線の電柱やコンクリート壁にはやたらに○○おでき薬局の広告が目だっていたことを覚えている。その様なものでもきびしい世相を反映し、社会生活につながる広告媒体であったし、人間が人間らしい生活文化を持とうとする産業の萌芽に違いなかった。13年後の今日からは到底想像し得ない、それは実情であり現象であった。私はその様な類のポスターなどをも必死になって収集したり、宅で購読する新聞雑誌をしきりに切取ったり、占領軍兵士の拾てるビールの空カンや煙草の空箱まで拾い集めたりした。またデパートをまわって店内をつぶさに見学したり宣伝部の人達に会って色々話をきいたりした。また旧師先輩朋友を歴訪して意見を聞いたり援助を乞うたりした。宅からは自分が学生時代から使い馴れた描画用具や、図案参考品はあら方学校へ持って行き、それはその後殆どすべて消耗してしまった。今でも備品検査の折など実習室や準備室の片すみにそれらの残骸をみる事もあるし、バラバラになった図書の廃残姿を見つける事もできる。苦心して集めた私のスクラップブックは何冊も行方不明になってしまった。

 一年経ち、二年過ぎて、それでも生徒は生長して行って呉れた。やっと間に合わせた石膏モデルでデッサンもやり、ベニアの手造り図板でポスター図案をかいた。丁度その頃横浜に貿易博覧会が開かれたが、学校に程近い反町会場の建設場デザインはよい刺激になったし、幸いなことに本校図案科出の先輩が日立館その他手広く仕事を請負っていた為、会場ディスプレーデザインや製作過程について直接見学させ、これに協力させて、生徒にとってこよなき参考となったのも忘れられない。

 また、木材工芸科についても語りつくせない思い出がある。いつの間にやら私は図案科と合わせ受けもち兼任科長としての仕事で苦労をなめた期間があった。専任の教諭職員が得られなかったので、私は進んでその学科講義も実習製図をも担当した。バラック校舎、それも事務室職員室前の廊下に工作台をおいて木工実習をやり、騒音と鉋屑で先生方を大いに悩ませたものである。そうして作った炭取りや塵取りやモダーンな本立や卓子や電気スタンドなどは秋の文化祭でみんな売れてしまった。そして製図では近代家具やラジオキャビネットなどに新感覚をもり込んた。また実習材料の購入費、実習課題の選定に苦心の挙句、校長の認可を得て図案科で購入する備品を木材工芸科へ発注した形式をふみ、その予算で木材材料を買入れて製作した戸棚やイーゼルを図案科へ納品するという様な事をやった。すべて復興初期の生徒とはこの様に苦労をともにしたので今に至るまで他人行儀になりきれぬものがある。

 そうこうしているうちに世情もいよいよ向上発展するにつけ種々の宣伝企画も盛となり、官庁会社団体などでポスターの懸賞図案募集が次々にあったので在学生徒の作品を応募すると、それがいつも一・二・三等、佳作賞とズラリ入賞(例、国土緑化運動・産業教育70周年・国連・正量運動等々)或は公的意義の深いPR企画には進んでポスター図案を提供したり、依頼や要請に応じて染織図案や雑貨玩具デザインの学習作品をまとめて出陳し協力した。そのころ図案科には女生徒も加わっており、ラジオの記念放送に出たものもあった。近年来、東京丸善・横浜有隣堂で卒業制作デザイン展を開催し、他校、他科に先んじて躍進工業高校教育の在り方を世間に示し、斯界の専門家達をして瞠目させているというのも強ち己惚れに過ぎようか。

神奈川工業高校工藝圖案科

 やがて追々と校舎も増築され設備も加わって行った。科の特質に相応しくと校舎が新築される度に新教室を与えられたり、木材工芸科の木工機械も購入された。機械科の大島さんと一緒に藤沢の東京螺子工場へ木工機械一式を受領に行き、帰りに屋台で安酒をチビリチビリやり乍ら木工工場の建設について夢ならぬ現実の話をしたものである。そのうち専門の教諭職員も来られ、年々卒業生を送り出すし、生徒数も定員を確保した。就職幹旋にはこまごまとした気を遣ったが両科共概ね適材を適所に送りこんだ積りである。本建築の見通しがつき、機械科の実習工場に続いて建築科との共用の木工工場も竣成したし、何年次にも跨がってコンクリートの三階建の北館が完成しやっと各科とも一応、実験実習棟の充実をみることになったが、各科の占有面積の調整の上でも、科内の各室配置の計画にしてもずい分神経を使ったし、工事中も心配になってコンクリート打ちのセキ板がとれるや否や現場に侵入して見廻ったものである。そのうち外装内装の仕上げまで県の係官や現場工事監督と親密に話し合って行く事ができた。壁天井窓枠腰巾木床の外観塗装はもとより、便所のタイルやテラゾの選択にまで参画し、学校の教室にはもったいない様な壁紙貼付もされたし、新構想を進言して、製図室の廊下側には柱間のスペース最大限に厚ガラス張りのショウウィンドウを特設して貰った。この様な誇らしい事はこれ以上書きつらねない方がよいかも知れぬが、結局北館の竣工が、どんなに私たちに強い願望であったか、またそれがどれ程深い感激となったかを言いたいのである。そしてその後も次々と南館、本館も出来、本館四階のデッサン教室の完成をみて本当に図案科再建の夢が実現した。それにしても、昭和23年、図案科ルネッサンスの新声を挙げて以来満13年。前校長時代以降、本校内外、公私の各位から寄せられた深厚な御同情と御支援には唯々感謝の外はない。

 そして、復興初期の困難な条件下に修学した人達も卒業後はめざましい闘魂と才腕を以って活躍しており、新しい卒業生も続々と新潮にのって出て行っている。中には卒業後数年にして各界第一級のデザインコンクールに特選入賞したものも幾多あり、何々協会会員その他団体役員になったり、一流会社内でも重要なポストを占めて立派な実績をあげるものも輩出している。CMデザイン、IDデザイン界に本校図案科卒業生のあげる声名は、今や京浜商工業地域にとどまらず全国的にひびいており、各大学からも驚異の目を瞠られている。

 しかし、現下のブームに乗った好調のデザイン界も、世界的な視野からみてわが国に於けるその水準、その性格特質にはなお反省の余地あり、デザイン教育の方式、機構にも再検討の必要あり、また、一般社会の認識、デザイナーの自覚にも問題は残されている。特に教育行政上に於けるデザイン科の立場や、学習指導にあたる教師の資質向上には多大の研究対策が急務である。徒らに欧米先進国の模倣追随に血眼になり、浅薄皮相な感覚技能主義に偏して、確固たる史観を欠き独自性を喪失した場当り的デザイン教育に終始したならば、いつかは幻滅の憂目を見ねばならぬであろう。

 造形デザイン、産業工芸の本義と真理を迫求し、デザイン倫理観の啓豪と琢磨につとめて、革新技術時代を先達となって乗りきれるだけの実力を身につけて行かねはならぬと思う。神工デザイン科ルネサンスの大成をめざして、この年この機こそわれわれは慎重にそして勇ましく輝かしい旗幟を推し進めねばならぬと思う。50周年祝賀にわくこの月この日に、栄ある神工の伝統を回顧するとともに、われわれの前途に加えらるべき幾多の波乱と試練を思い、静かにまた虔ましい自重の誓いをこめねばならぬのである。

神工50周年記念誌回想文

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