丸井金猊

KINGEI MARUI

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宝塚歌劇のあゆみ展 展示風景

宝塚歌劇のあゆみ展を終えて
宝塚市立中央図書館

2014年4月1日、清荒神の宝塚市立中央図書館聖光文庫で開催された「宝塚歌劇のあゆみ」展が5月13日に終了しました。

宝塚市制60周年・宝塚歌劇100周年記念展示(誕生から昭和20年代までを中心に)と銘打たれた本展は、展示室全体に並置されたローケース型の展示ケースに四つの時代に括られて

  • 明治期・大正期の宝塚:宝塚温泉、駅、パラダイス劇場など
  • 初代大劇場・東京宝塚劇場・二代目大劇場の開場:建物・周辺など
  • 日独伊親善芸術使節団・訪米芸術使節団:新聞記事・出発写真など
  • 戦後の公演再開:公演パンフレット・脚本など

と絵はがき・写真・図面から公演パンフレット・機関誌・新聞記事・脚本・楽譜・歌劇集といった資料類が時系列に並び、それらを見据える恰好で壁面側のウォールケース型展示ケースに丸井金猊が手掛けた東宝劇場の壁画『薫風』下絵とその関連資料という展示配置で構成されました。

宝塚歌劇のあゆみ展 配付資料

Balmy Breeze - 薫風(騎馬婦人群像圖)薫風』は昭和12年(1937年)に阪急電鉄創業者で株式会社東京宝塚劇場の社長・小林一三翁の委嘱によって、金猊が東宝劇場階段ホールに描いた作品で、高さ3m×横幅3.6mのおそらくは屏風を壁画として嵌め込んだものと思われます(右の画像をご覧になればわかるように四曲屏風の折り曲げ位置と思われる縦線が3本入っているため)。

ただし、壁画自体は時期不明ながら焼失(※1)。
東宝劇場発行の機関誌「エスエス」昭和14年6月号その下絵と壁画の白黒写真が残されている限りで、東宝劇場発行の機関誌「エスエス」にも同写真が掲載されていましたが、作品部分のみの掲載で、どこにどのように設置されていたかを把握できるものではありませんでした。

ウォールケース型展示ケースに金猊関連資料がまとめられた。本展は宝塚歌劇の本拠地・宝塚市で行われる展示なだけに、東宝劇場関連は傍流でそこに金猊の大きな下絵が加わることには気後れしないでもなかったのですが、「宝塚歌劇のあゆみ」のタイトル通り、そのあゆみを時代ごとに系統立てて紹介していくものだったので、こちらの心配は杞憂に終わりました。東宝劇場の資料だけでも以下のものが並べられました。

 37. 開場予告新聞記事
 38. 東京宝塚劇場建築概要
 39. 昭和9年開場当時の東京宝塚劇場
 40. 東京宝塚劇場壁画『薫風』下絵(丸井金猊作)*
 41. 金猊作品領布会趣意書*
 42. 金猊 絵はがき*
 43. 雑誌「エスエス」昭和14年6月号掲載の『薫風』*
 44. 東京宝塚劇場(絵はがき)
 45. 昭和9年1月 月組 東京宝塚劇場開場公演パンフレット
   『宝三番叟』『巴里のアパッシュ』『紅梅殿』『花詩集』(小夜福子・葦原邦子)
 46. 銀座方面から日比谷を望む(写真)
 47. 旧帝国ホテル前 集合写真(写真)
 48. 雨の銀ブラを楽しむ生徒たち(御堂ゆき子・昇道子・高嶺とき子)(写真)
 49. 藤花ひさみと阿古屋珠子(写真)
 50. 銀座 不二家付近を歩く(雲野かよ子と社敬子)(写真)
 以上「『宝塚歌劇のあゆみ』主な展示資料」より。番号は記載順。*印付が金猊関連。

竹中工務店:東京宝塚劇場建築概要中でも「38. 東京宝塚劇場建築概要」(竹中工務店)は、美術史研究者の増野恵子さんから以前にいただいていた資料と同じもので、改めて専門家の調査力に感心させられました。工事関係者情報に目をやると構造計算及び監督に工学博士で通称コンクリート博士と言われた阿部美樹志の名前が出てきます。阿部氏といえば<本邦初の画期的なターミナルステーション・デパートメントストアビル>となった旧阪急梅田駅コンコースの構造を手掛け、建築巨人・伊東忠太に<旧コンコースの意匠考案を依頼するという提案>を阪急に対して行った人物。2005年旧阪急コンコース解体時に行った「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・」という保存活動で知ることになった存在でした(※2)。こうした情報からも思わぬ繋がりが見つかります。ただし、竣工時(昭和9年)の工事概要ですので、『薫風』の設置された昭和12年の情報まで記載されているわけではありません。

薫風ノート(左下)を用意したが、反応は得られなかった。そこで展示期間中に『薫風』の設置状況や壁画の色合いについて見覚えのある方から情報を引き出せないかと考え、「宝塚歌劇のあゆみ展:東宝劇場壁画『薫風』下絵展示に寄せて(PDF: 546KB)」というメッセージを掲示し、覚え書きノートのようなものを置かせてもらいました。結果としてこれといった反応は得られませんでしたが、やはりそこは東京から離れた関西の地であることと、『薫風』を見ている世代がもう90歳前後となっていることが情報収集を難しくさせているのでしょう。それを考えると後述しますが、同時期にすこし遅れて東宝劇場のご当地・千代田区の日比谷図書文化館で開催されていた東京宝塚劇場開場80周年記念特別展「日比谷に咲いたタカラヅカの華」に『薫風』関連資料を展示出来なかったことは残念の一語に尽きます。

神戸新聞 2014年3月31日朝日新聞 2014年4月18日ともあれ、まだまだ知られざる金猊の存在が、宝塚市立中央図書館で多くの方の目にとまり、さらには神戸新聞朝日新聞でも紙面に大きく取り上げられたことは、望外の収穫でした。両紙に掲載された記事内容は、取材される側からするなら最大の賛辞である「過不足なく(新聞雑誌取材では"過"掲載で何度か痛い目にあってきましたので)」丁寧にまとめられていて、神戸新聞の田中真治記者、朝日新聞の鈴木裕記者には感謝することしきりです。

宝塚私立中央図書館の学芸員(4月に退任)七條さんと。そして、これらの展示企画を考えられ、そこに金猊の『薫風』下絵が資料として扱えると判断された宝塚市立中央図書館の皆様、特に企画担当されていた学芸員の七條美樹さんには企画のことだけでなく、設営時の対応から展示期間中の案内までお世話になりっぱなしで、感謝の言葉も見つかりません。それともう一人、その七條さんに金猊『薫風』の話を繋げられた存在をあげないわけには参りません。

2013年12月27日 読売新聞夕刊より宝塚文化研究者の山梨牧子さん。去年暮れ(2013年12月27日)の読売新聞夕刊に「宝塚77年前の公演映像」(※3)という見出しで、1936年東宝劇場公演の個人撮影によるフィルム映像修復公開という記事が掲載されていました。その調査・修復に関する共同研究を手掛けられていたのが山梨さんで、もしかしたら『薫風』がその個人撮影映像に映っていることはないだろうかとSNSで問い合わせてみたところ、山梨さんからは『薫風』が映っている場面はなかったというお返事ながら、金猊の存在をご存知だったようで、宝塚市立中央図書館でこれから開催される「宝塚歌劇のあゆみ展」に『薫風』関連の 情報を資料提供してみてはどうかというご提案をいただきました。

そんな何の気ない問い合わせ質問から『薫風』下絵の資料展示は実現しました。下絵とはいえ、まさか金猊も小林一三翁に委嘱されて描いた『薫風』がご当地の宝塚で展示されることになるとはよもや考えもしなかったことでしょう。

高さ2.1mの展示ケースに対して『薫風』下絵の高さは3m。奥行きを利用してうまく展示できた。最後に展示上の余談を一つ。
ウォールケース型展示ケースの高さ2.1mに対して『薫風』下絵の高さは3m。中に展示台もあったので、それを利用して階段状に折るように吊るす、かなり無理した展示になりました。

ふだん高くて仰ぎ見ることしかできなかった婦人群像と目線を合わせられるようになった。が、それが災い転じてと申しますか、『薫風』の人物は非常に高い位置に描かれていて、これまで顔は下から見上げなければならなかったのですが、ちょうどよい目線位置で見ることができるようになりました。階段ホールの設置だったことからするとおそらく金猊は舞台を観終えて階段を降りてくる観客の視線を考慮して人物を高めに描いたのだと思われますが、下絵を階段状にすることで期せずして金猊の企図に近づけたのも、この宝塚市立中央図書館での展示があってこそでした。

日比谷図書文化館で開催されていた東京宝塚劇場開場80周年記念特別展「日比谷に咲いたタカラヅカの華」。後日、東京の千代田区立日比谷図書文化館で開催されていた東京宝塚劇場開場80周年記念特別展「日比谷に咲いたタカラヅカの華」を観に行ってきました。その前に宝塚大劇場内に百周年を記念してオープンした「宝塚歌劇の殿堂」の豪華な展示も観ていたので、宝塚市立中央図書館と「宝塚歌劇の殿堂」の間のやや殿堂寄りの展示といった印象でしょうか。展示スペース的に考えて『薫風』下絵の展示は難しくても、『薫風』写真ならば東宝劇場の時代を彩る一枚として加えられて然るべきものだったのではないかと思いました。しかし、残念ながら問い合わせフォームとFacebookメッセージの二通りの手段で東宝劇場に関する資料があると問い合わせても、梨の礫でお返事すらいただくことはできませんでした。

その東京に行ったついでで、久々に89歳の伯母を訪ねるとまだまだ元気一杯で(金猊は母方なので、その伯母は『薫風』は見ていない)、宝塚市立中央図書館での展示の話を報告すると、伯母は宝塚女優「東風うらゝ」こと宮城千賀子の付き人を一時期やっていて、伯母も父も宮城千賀子の家に住まわしてもらったこともあれば、その後の伯母の仕事(映画の記録・スクリプター)も宮城さんが世話してくれたし、父の就職の世話もしてもらったということで、事実上、宮城さんの存在がなければほぼ自分は生まれていないことが判明しました。いやはや、思わぬところに縁は転がっているものです。

そして縁といえば、宝塚市立中央図書館「宝塚歌劇のあゆみ」展の次の展示が、写真パネルによる「法隆寺金堂壁画展」で、法隆寺は金猊の創作の源泉にあたる世界。『薫風』下絵を降ろした後に「法隆寺金堂壁画」(コロタイプ印刷)の軸が吊り下げられる場に幸運にも立ち会え、これまた感慨深いものがありました。

今年の秋の芸工展は、午年にちなんで金猊が描いた馬の絵を展示する予定で、『薫風』下絵はもちろん、馬に乗った聖徳太子圖の掛け軸も展示する予定です。

脚註

※1)実妹・佐藤八恵の詩『四角四面』によれば「戦災で焼失」とありますが、今回、新聞社の調べで戦時中に劇場火災はなかったことが判明し、昭和33年の劇場火災で焼失した可能性が高いと思われます。

※2)保存活動「旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・」では、2005年当時、盛んになりつつあったブログのトラックバックとコメント機能をフル活用し、そこで集まった情報をまとめ、署名という名前だけではないメッセージ付きの人々の想いを阪急本社に送付しました。それが通じたのかはわかりませんが、現在、阪急うめだ本店13階にできたグランドカフェ&レストラン「シャンデリア テーブル」には旧コンコースの意匠やシャンデリアがほぼそのまま移築され、我々が求めた生きた場(明治村ではない)での再活用がされています。
活動の際には建築史や歴史に詳しい方々に解説やコラムをお願いし、阿部美樹志の存在も日間 仁さん(そのとき限りのペンネームw)による「阪急ビルディングの建築に就いて」というテキストで知ることになりました。今改めて読むと新たな発見も多く、必見必読のテキストです。是非ご一読ください。

※3)「宝塚77年前の公演映像」で紹介された東宝劇場公演映像も同展ではPC閲覧の形で公開されていました。尚、山梨さんによれば、研究チームで制作したドキュメンタリー「日比谷に咲いたタカラヅカの花」が11月の宝塚映画祭で上映されるかもしれないとのことで、詳細は改めてサイトでご案内いたします。