1933年東京美術学校(現東京藝術大学)日本画科卒業。1935年同校研究科終了。私立川村女学院(現川村学園)美術科、埼玉県立浦和第一高等女学校(現浦和第一女子高等学校)教諭を経て、1947年東京美術学校工藝科講師。1948年より以後20年以上に渡って神奈川県立神奈川工業高校工芸図案科(のち産業デザイン科)教諭を務める。
和洋エジプト入り乱れた独特の画風で、学生時代より旺盛な創作活動を見せるが、30歳に差し掛かる頃、時代は戦争へと暗転。以後ほとんど自作品の創作に向かうことなく、晩年を迎える。神奈川工業高校退職後、「死ぬ前に一度個展を」と再び絵筆を握り始めるが、1979年心筋梗塞のため武蔵野市日赤病院にて急逝(享年69歳)。
1930年国際美術協会主催第一回美術展覧会入賞主席。主な仕事として1935年愛国生命保険(のち日本生命保険)壁画製作、1937年には阪急電鉄の創業者である小林一三氏の委嘱により東宝劇場階段ホール壁画製作(火災により焼失)などを行っている。
以上は、1997年10月に三鷹市美術ギャラリーで開催した「丸井金猊とその周辺の人たち展」のチラシで掲載した丸井金猊のプロフィールに、金猊の孫である編者(m-louis)が一部加筆したものである(チラシをお持ちの方はどこを変更したか較べられると面白いかもしれない)。
この文章を書くにあたっては以下に転載する祖父本人が書き記した履歴書の他に、メモ帳や祖父のところに届いた手紙、また祖父の実娘である母や親戚の話などを参照した。
本来であれば、約40年に渡って連れ添った祖母に話を聞くのが一番なのであるが、事実上、祖父の遺作展を企図したのが脳梗塞で約3年間寝たきりを続けた(ほぼ喋ることもできなかった)祖母が亡くなってからだったので、どうにもならなかったのである。端から見れば何でもっと早くにと思われるだろうが、そもそも私が超無気力高校時代などを送ってしまって、祖父の早熟ぶりとは対照的にあらゆることに目覚めるのが遅かったのだからやむを得まい。だからといって、あの無駄に過ごした高校時代をやり直したいとも特には思わないのだが(無駄で馬鹿なりのよさがあったし)、やはり一つ惜しむべきは祖母からの情報収集がまるでできなかった点だろう。
「和洋エジプト入り乱れた独特の画風」なんてのも今からするとかなり恥ずかしい表現だけど、まあ、事実でもあるので、そこはそのまま掲載した。でも、「入り乱れた」というよりは「異物をうまいこと構成した」と言った方が適当かもしれない(笑)
以下、転載する履歴書は基本的に祖父の記述をベースに西暦と年齢を添えただけのものであるが、最後の個人略歴と遺作展歴は私の方で新たに追加している。