金猊馬考 Ⅰ - はじめに

Meditations on KINGEI HORSE 1

芸工展2014「金猊馬考」展では展示準備に向けての発見や考えを書き落としていく予定です。
所蔵者目線のゆる〜いテキストですが、脚註は展示にも活かせるよう充実させるつもりです。
PDF版(1MB/3ページ)も用意しましたので、紙好きな方はダウンロードしてご覧ください。

はじめに

2014年の谷中M類栖・芸工展企画「金猊馬考」は至って他愛もないことをきっかけにしている。
丙午生まれで馬好きの友人がいて、次の午年には金猊が描いた馬の絵ばかりの展示をするので、是非遊びに来ないかと前から誘っていた。その友人が馬に釣られて果たして来てくれるか?
それはともかく十二支のうちで丸井金猊が谷中M類栖/1fの展示空間を埋められる数の絵を描いていたのは午(馬)だけなのである。

それとは別にもう一つ。ここ数年ずっと引っ掛かっていたことがあった。
一宮市博物館 講演「美術の遺伝子」2008年に一宮市博物館で館企画の特別展「いまあざやかに 丸井金猊展」が開催され、その講演会が行われたときのこと。遺族代表ということで登壇した私に当学芸員の伊藤和彦さんから質問が投げ掛けられた。
「金猊先生の絵には馬をモチーフとした作品が多いですが、馬に何か特別な想いなどあったのでしょうか」
確かそのような質問だったように記憶している。それを受けて自分なりに思うことがなかったわけではないが、あくまで自分なりの身勝手な解釈でしかなかったので、そのときは客席にいた母を指名して話を振るという逃げに出てしまった。祖父・金猊を9歳で失った自分よりは、金猊の実娘として父・金猊と長く接する時間を持った母の方が適当なエピソードの一つでも持ち合わせているだろうと思ったのだ。しかし、唐突なスルーパスに母から出てきたのは乗馬する金猊に抱きかかえられて馬に乗った幼い頃の思い出話だった。

このとき、もし私なりの解釈を切り出していたなら、おそらく会場をしらけさせていたに違いない。それは私の解釈というのが、牛ではなく馬を好んで描く金猊の価値感ないし美的趣味こそが、画家としての成功を阻まれる要因になっていたのではないか?という乱暴な推論に拠るものだったからだ。晩年の金猊が妻への手紙で「世の中の生存競争の勝利者でないボク」と書き残し、事実これまで金猊の存在を記述しようとはしない歴史に直面してきた孫としては、ある頃より金猊の求める美の方向性そのものに何かしら弱さのようなものがあるのでは?という疑惑に囚われ始めていたのだ。

杉山寧『生』1971年それは具体的には牛ではなく、馬を好んで描いたことに端的に現れている。馬のもつ俊敏で颯爽とした風貌、賢智漲るスピード感。それら馬のスマートな印象はどれも私の中の祖父像とも重なるものだ。しかし、裏を返せばそれは華奢で繊細、線の細いイメージであり、牛のような大らかな、時を静止する野太さ、鷹揚さ、泥臭さが感じられるものではない。それらの太っ腹イメージは歴史上の偉人に共通する傾向の一つで、別の言葉に言い直すならば器の大きさ=キャパシティとも繋がるだろう。東京美術学校の同期生で、画家として成功を収めた杉山寧の画面が放つ厚みは、顔料やメチエール自体の厚み以上に、金猊にはない何かを満たしているように見えてくるときがある。杉山寧は彼の代表作において馬の絵も牛の絵も描いていた(*1)

055)天馬図しかし、他方で身勝手な解釈と自覚するように、その乱暴な推論は単に己の浅学ゆえなるものという裏返しの希望も捨てているわけではない。講演会でご一緒し、図録にも寄稿された美術史研究者の山本陽子さんが「丸井金猊と古美術の学習─画家の茶目っ気─」の最終章を「天馬翔る」の見出しで締めくくられている(*2)。彼女のテクストというのは読み返す度、それまで読み過ごしていたところがあったことに気づかせてくれる発見の宝箱なのだが(即ちそれは経験の上積みを確認する診察台でもある)、「天馬翔る」の章を読んでいて金猊がなぜ馬の絵を描いたか改めて考察するヒントが散りばめられていると最近感じるようになってきた。

その直感に従って今年の芸工展は金猊の描いた馬の絵を展示するだけでなく、準備に向けての発見や考えを「金猊馬考」と題して書き落とし、その都度、ブログ、SNSを通じて配信という形を取っていこうと思う。その過程で伊藤さんへの回答が見つかるだろうか。それが見えたとき先の乱暴な推論からなる疑惑も晴れているのかもしれない。何も見えずに芸工展期間に突入しまったならばご愛敬である。以下に掲載する註釈用画像は会場でもプリントしたものを展示予定で、来館者が「馬考」巡らす補助資料になれば幸いである。

脚註

*1)杉山寧(日本画家・文化勲章受章者・1909年10月20日〜1993年10月20日・東京出身 →Wikipedia

東京美術学校時代(1932年)右から四番目が杉山氏、三番目が金猊東京美術学校日本画科の同期生で、10月19日生まれの金猊と誕生日は一日違い。入学直後から学科内では常にトップを競い合うライバル関係にあったと聞く(同年卒業の吉原正道氏談)。しかし、卒業制作首席の座は杉山氏に譲り、卒業後の画家としての活躍ぶりはその経歴をみれば比較するまでもない。杉山氏は在学中から帝展に出品し、山本丘人や高山辰雄らと「瑠爽社(るそうがしゃ)」を結成。日本画の革新をめざす活動に携わるも、1938年に肺結核を患い、戦時中は病床で創作活動を継続できない時期があった。

一方、金猊も在学中から国際美術協会主催第一回美術展覧会入賞首席し、歴史に名を残す政治家や実業家らに作品を買い取られているものの、その展覧会自体の情報が現在ほとんど残っておらず、「画壇」という場に近づこうとしなかったのか、入れてもらえなかったのかは不明である。そして杉山氏が病を患った1938年に第一回現代美術展覧会に四曲屏風「壁畫に集ふ」を出品し、それを最後に晩年まで作品制作に挑んだ形跡は見られない(戦争が大きな要因となったことは推測されるが、なぜ筆を置いたかは今も不明)。

昭和八年卒の東京美術学校同期生が集う八年会(1974年・椿山荘)ただし、二人はライバル関係ながらも仲は良かったようで金猊が亡くなるまで付き合いは続き、教員を定年退職後に再び絵筆を執り始めた金猊に杉山氏は「個展をやるときには一筆書くから」と励ましていたらしい。

病を克服された杉山氏が戦後に活動を再開し、彗星の如く画壇に戻ってきたときに描いた「エウロペ」に描かれていたのが牛に腰掛け角を握る裸婦像だった。その後、晩年まで要所要所の代表作に牛と馬は登場する。

杉山寧『エウロペ』1951年 杉山寧『こう(つちへんに光)』1980年 杉山寧『洸』1992年

杉山寧「一冊の本」(朝日新聞 1962年3月22日)より抜粋
わたしは今でも千ページに近いこの本(高田忠周著「朝陽字鑑精萃」)を、制作の暇に何となく繰りながら、辞典ふうに整理された古文字の形を味わう。たとえば「馬」の項などを見るとほとんど絵のような、立ち上がる馬、踊るさま、走る形から単純な抽象的な記号になり、現在の馬の字に近いものまで古い中国の金石から採集した文字がのせられている。そのさまざまに変化してきた形を見ていると、絵と文字との区別のつかない世界の、人間のたくましい意志的な形象化への努力に胸打たれる思いがする。

*2)山本陽子(美術史学者・明星大学教授・1955年〜・東京出身 →Wikipedia


「山本陽子」で検索すると女優の山本陽子さんが出て来てしまって、なかなか美術史学者の山本陽子さんが出て来ない。ご本人は雲隠れ出来てほくそ笑んでいるかもしれないが、実は中世日本美術史や絵巻物だけではなく、表現の問題においてマンガにも踏み込んで書かれている方なので(趣味もあるのかもしれないけど)、サブカル領域に関心のある方たちにも知ってもらいたい存在である。夏目漱石の孫としても知られる漫画家の夏目房之介氏が、山本陽子著『絵巻の図像学 「絵そらごと」の表現と発想』(2012年発行)をブログで取り上げられているので是非ご一読されたい。
http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2012/06/post-b105.html

一宮市博物館「いまあざやかに 丸井金猊展」展覧会図録に寄稿された「丸井金猊と古美術の学習─画家の茶目っ気─」では、美術史を学び始めた頃の彼女が来宅されて、金猊と時間を忘れて会談したエピソードが書かれている。実は子どもながらに私もそのときの情景が記憶の片隅にあるような気がしてならない。母の恩師が陽子さんの御母堂だったこともあり、小さな頃から顔見知りで、通学通勤途中の陽子さんに出会うといつも挨拶していた。私とは15歳離れているので、子供心にちょっと憧れのお姉さんといった存在。それがのちに金猊を通じたやりとりをすることになろうとは...。おそらく金猊もあの世で陽子さんの美術史研究者としての活躍振りに目を細めていることだろう。というより自分の作品の引用源を言い当てられ、冷や汗を掻いているかもしれない。以下に転載するのはそのエピソードの書かれた図録最終章「天馬翔る」である。

天馬翔る
法隆寺献納宝物の龍首水瓶 金猊の晩年に一度、お話をうかがったことがある。美術史を学び始めたばかりの筆者に、飛鳥・奈良時代の仏像について、この時代の作品への朝鮮半島からの影響、会津八一の『鹿鳴集』、和辻哲郎の『古寺巡礼』と様々な説や書物を引用して、いきいきと教えてくださった。それは止まるところを知らず、たしか午前中に伺ったはずなのに、お宅を辞したときはもう夏の夕日が射していたのを思い出す。
 もう一度、絵筆を執りはじめたのだ、ともうかがった。その折、後ろに掛かっていた幾つかの馬の絵についてお話が出た。実際の馬ではなく、埴輪の馬や唐三彩の陶製の馬をモデルにして対比したとのことであった。法隆寺献納宝物の龍首水瓶に線刻された文様の馬は、東洋のものなのに羽根がついてペガサスになっていることをうかがったのも、この時である。その東洋製ペガサスは天馬となって、新しい金猊の絵の中で空を翔けていた。古今東西を駆け巡る金猊の発想は、いまだ衰えてはいなかった。

試論

  1. 金猊馬考 Ⅰ - はじめにPDF: 1MB/3ページ)2014.7.29
  2. 金猊馬考 ⅠI - 四つの評価軸PDF: 986KB/3ページ)2014.8.23
  3. 金猊馬考 Ⅲ - 馬上太子圖PDF: 1.2MB/5ページ)2014.10.27

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