丸井金猊 試論ノート
やまと絵の継承から「スーパーフラット」の先駆者へ──昭和の異才 丸井金猊 試論ノート
相澤哲也(美術家、日本画家)
芸工展2026「観音圖■相澤哲也▲溝口泰信●丸井金猊」で金猊《観音圖*》と並ぶ新作軸四幅の制作をお願いした相澤先生こと相澤哲也氏が、本格的な制作に取り掛かる前に金猊についてある程度整理して試論としてまとめておきたいと執筆くださいました。Wordの原稿をPDF化するに当たってのレイアウト上の編集と校正を一部協力しておりますが、文末の編者記にも記した通り、本来は遺族がまとめるべき要素も多く含まれながら、遺族では到底書き得ない着眼と筆致による論考で大きな刺激となっています。
A4用紙16枚16000字に及ぶ大作で分割掲載も考えましたが、金猊サイトは特に文字数制限もないので最初にPDFを張って、その全文を掲載いたします。また、note でも相澤先生個人が分割掲載される予定なので、もし相澤先生に感想や質問等直接お訊ねになりたい場合は note の方でご質問ください。よろしくお願いいたします。
☞相澤哲也『金猊試論ノート』ver3.7[PDF: 1MB/16ページ]
やまと絵の継承から「スーパーフラット」の先駆者へ
──昭和の異才 丸井金猊 試論ノート
序 忘れられた日本画家 丸井金猊(1909~1979年)
Ⅰ. 金猊の制作テーマと絵画様式
Ⅱ. 美術史に金猊絵画を位置付ける
1. やまと絵の継承
2. ジャポニスム還流
3. ジャパニメーションとの近親性
Ⅲ.「スーパーフラット」の先駆け──早すぎた画家
Ⅳ.「やまと絵の系譜」──現代日本美術史編纂と補完 への提起
Ⅴ. あとがきに代えて──2026年秋の企画展へむけて そして・・・
序 忘れられた日本画家 丸井金猊(1909~1979年)
金猊が、1930年代に描いた一連の代表作を見ると、古今東西の古典から習俗まで題材として引用構成し、現在のジャパニメーションをも彷彿するような独自の画風をもって、端正に描いている。時代を想えば異端、異才といえよう。
だが第二次世界大戦を経て戦後に入ると、東京美術学校(現・東京藝術大学)時代の同級生杉山寧、同窓の東山魁夷(一学年上)や高山辰雄、さらには20年ほど下るが平山郁夫をはじめとした画家たちにより、新しい潮流の日本画が席巻し始めた。それは金猊が志向した表現とは真逆といえるものであり、その頃には教育者として多くの時間を費やし、画壇の表舞台からは離れていった。
前列中央に日本画科主任の川合玉堂、その後方斜め左に丸井金猊、後方左から三番目が杉山寧
明治維新後に誕生した「日本画」は江戸期までのやまと絵をベースに、洋画(油彩画)の取り込みを図った。おおまかに言えば、明治以降には横山大観、菱田春草らによる朦朧派に代表されるような、線描をしない
そのように多くの日本画家たち(及び画材開発者)による新しい画材や技法の試行錯誤を重ねて、ようやく21世紀に入り「日本画」は、完成したと私は考える。新しい絵画様式が完成するために、なんとおよそ1世紀半を要したのだ。
金猊は東京美術学校卒業後には、美術展出品など華々しく発表を重ね日本画画壇に打って出て、作品が企業や資産家らに次々と購入されるなど、高い評価を受けていた。だがおそらく戦争で画業の中断を余儀なくされ、戦後に入ると教育者として時間の制限を受けた。くわえて日本画第二芸術論が吹き荒れ風圧が強まる中、抗うように多くの画家たちによって、厚塗り制作での新しい日本画への試みが脚光を集め始めていた。彼らの作品は金猊の企図する新しい日本画に反する方向性を持っており、旺盛な制作に向かうにはより困難な状況だったであろう。それは魁夷の同級生 田中一村が画壇からも都会からも離れ、奄美大島で独自の日本画制作に没入した事例とも呼応しているように私には思える。そして没後20年を過ぎた頃より、⾦猊再評価への顕彰が始まった。その一助となるようこの文を記す。
Ⅰ. 金猊の制作テーマと絵画様式
金猊独自の絵画世界を考察する。1933年の卒業制作《菊花讃頌》(所在不明・モノクロ写真)にはじまり《観音圖*》(1936年頃)《薫風》(1937年・焼失)《壁畫に集ふ》(1938年)などの大型屏風作品群に、金猊はもっとも精力を注いで制作し、自信を持って発表したに違いない。
鉄線描(線の太さが抑揚無く一定)を中心に強い平面性が大きな特徴であるが、そこに古今東西の古典から学んだ様式美や引用を組み合わせた構成の画面は当時としては新機軸の制作である。そこには若き金猊の、伝統に基づきながらもスーパーモダン(画家 溝口泰信氏評)とも言えようハイカラで新しい時代の日本画を、独自の画風を持って世に問うた自負がうかがえる。その線描であるが、やまと絵とその線描の伝統を引き継ぐのは横山大観以後の速水御舟、渡辺省亭、小林古径、上村松園、前田青邨、安田靫彦・・等あまたいる日本画家の中で、やや無機的でこれほど硬質によどみなくひかれた鉄線描はないとは言えぬが稀と思う。まるでアニメやマンガの線(アウトライン)の様に自立性が強いのだ。
代表的屏風作品に描かれているその絵画世界を観てみよう。《菊花讃頌》には画面右端に和室に据えられたピアノを前に立ち、鍵盤に片手を置く白いドレスの女性が描かれ、その左横へと大きく広がる画中画の屏風には高貴な洋犬が胸を張って歩き、その後ろに整列したように並ぶのは、おそらく世界各国の現代的(当時の)職業婦人たちと思われる。対比するかのようにその屏風の前にはピアノによりそう女性と同じような、白くて薄いドレスとハイヒール姿の日本の貴婦人たちが優雅に舞うかのように立ち並んでいる。日本と海外の文化交流の象徴としての意図があったのかもしれない。彼女たちがそれぞれ手に持つ菊花は日本の象徴でもあろうが、本意は女性の象徴として配置したのだろう。まさしくこの画には女性讃頌=憧憬を描いている。
興味深いのは左端へと向かう屏風の犬に対して、屏風の右手前方にいる女性のドレスのショールだろうか背中から伸びるように絡みついているようだ。画中画を背景あるいは題材として入れて効果を上げるのは、古くからやまと絵(だけではないが)にある表現様式の一つであるが、そのように異空間を混淆するような試みは誠に面白い。
これは以前から絵画やマンガ、おそらくは小説でも扱われ、近年では映画においても時折見かけるようになったメタフィクション、あるいはメタ表現の先取りではないか。卒業制作としては実に意欲的で見事な出来映えと見る。
《菊花讃頌》からおそらく3年後に《観音圖*》に着手と年譜にはある。発表の形跡なく題名も作者の説明も残っていない謎の大作だが、私の現在の解読を述べる。
これは若き金猊による未知の恋愛、というよりも結婚への願望、憧れを描いたのではなかろうか。珍しく男性がただ一人描かれており、これは作者を投影しているように思う。
毅然と立つ百済観音像は麗しき女性像の象徴として、また画面内の人物たちとともに《菊花讃頌》の画中の屏風絵と同様の意味合いとして、仏像といういわば異世界の存在を入れることによる画面の異化効果を意図したように考えられる。そしてこの像と呼応するかの様にやはり奈良にある、飛鳥時代から平安の初期にかけて造られた仏像の名作3像──法隆寺救世観音、聖林寺十一面観音、法華寺十一面観音──からそれぞれ引用したコスチュームを、やはり3人の女性たちにまとわせたのではないだろうか(美術史研究者の山本陽子氏「いまあざやかに 丸井金猊展」図録解説による)。我が国の古典への敬意でもあろう。
左から馨子、迪津子(みつこ)、蘭子、霊子、龍而、(百済観音)、晴子と《観音圖*》大下図に記載されていた。
迪津子は法華寺十一面観音、蘭子は法隆寺救世観音、霊子は聖林寺十一面観音の衣紋から衣装への引用が確認されているが、馨子、龍而、晴子の衣装の引用源は装飾具を除きまだ解明されていない。
5人の女性たちの衣装はもちろんだが、中には国籍や年齢も違う女性もいる。と言うことは多くの素晴らしい女性たちの魅力を描き、その中から未来の伴侶を選ぶ、その期待と願望、可能性を表したように私には見える。優雅な女性たちに囲まれた男性(龍而)の優しげな視線の先には、画面右端にはためくように斬新な白いドレス姿の女性(晴子)がおり、横顔というよりもやや後ろ向きで顔がよく見えないのは、未知の選ばれる人を象徴しているのではないか。だから異国風の女性(蘭子)が彼女をにらみつけているのだろうし、手前にいる二人の女性の表情がややいぶかしく寂しげ(迪津子)であり、融和的とは言えない(霊子)のもその証ではなかろうか。左端に一人そっぽを向くように画面の外を向いている少女(馨子)に関しては未来の花嫁候補と思うが、あるいは未来に誕生する子供を描いたのかもしれない。未発表のこの画が推定通り1936年に制作したのだとすれば、翌年結ばれるさだゑ夫人と出会った頃であり、二人は当時には珍しく熱烈恋愛での結婚にいたったという。その出会い以前から制作に着手していたのかどうかはわからぬが・・・若い男性の女性への憧憬から出会い、そして結婚への端境期に描かれた絵と解釈しても無理ではなかろう。
「この絵の花嫁は右端の晴子ではないか」との指摘を受けたそうで、隆人氏も「そう言われてみると
晴子の横顔が一番妻のさだゑに似ている気がする」と言及されていたことを付しておきます。
後のさだゑ夫人と出会ってから描き始めたのか、あるいは対象者がいない中で結婚願望を抱いて描いているさなかに夫人と出会われたのかわからぬが、二人の結婚を願い、自ら祝福として描いた可能性が高いのではないかとあらためて思う。
金猊は一連の大作で、どの画にも独自の新しい表現スタイルを試みているが・・・この絵の表現で特筆すべきは、登場人物はじめすべての題材の中で、唯一百済観音だけが描写様式を変えているということだ。いやこの絵に限らず、私の知る限り金猊はどの作品にもこのように陰影の重視や、題材の傷み、汚れや劣化をも描くいわゆる西洋的リアリズム表現を用いてはいないように思う。何故この画では試みたのか・・・一つは「日本画」が明治以降に取り込んできた洋画的な表現を、一度自分もと試みた可能性はあるだろう。しかし、そうだとしても麗しき美男美女を端正に描いた画の中で、この像だけに試みたのは謎である。ましてや私が百済観音像に最も想うのは、この作者──名も知らぬが当時は高名だったにちがいない仏師──の狂おしいまでの女性への憧憬である。おそらく渡来人の彼は観音像に、辺境の国に仏教の教えを広め人々の心を救いたいとの願いを込めて制作したにちがいない。だがその過程で、菩薩の顔と細くたおやかな身体に思わず望郷の想いとともに、故国の家族か恋人か知らぬがその容貌を重ね合わせたのだろうと私には想えてならない。きっと金猊も私と同じように理想的女性像として捉えていたのではなかろうか・・・だがこの観音像からは、(写真を参考に描いたようだが)毅然とした姿を描いてはいるが、突き放したように客観的であり、そのような意図や思い入れは全く感じられない。
私の考えはこうである。金猊は百済観音から感動を得て、その女性美を自らのオリジナル女性像たちに投影したのだ。大作群や同じ頃(1937年)描かれた《浴女》や《婦女圖》も含め、百済観音同様すべて10頭身以上もあろうかという痩身でたおやかな女性たちである。まるで昭和50年代前後(と記憶するが)の少女マンガに時折現われた表現のようだ。百済観音は実際には8頭身程度だが、その造形と法隆寺での像を見上げる設置の印象により12頭身ほどにも感じる。そうしてそのインスピレーションの源をあえて、当時はやりの技法である写実的に描くのは、いわば種明かしである。そして異なる描写スタイルを同一画面に描き込み異化効果をねらう。それは当時誰も手がけていなかった絵画スタイルであり、彼の挑戦的試みだったのだと思う。ちなみに異化とはロシアの評論家ヴィクトル・シクロフスキーにより1910年代に、演劇のブレヒトは1930~40年代に提唱したといわれる。またロシア構成主義の美術、絵画は異質な素材の張り込みなどして画面を構成(コラージュ)するが、初めて日本に取り込んだ画家の一人が村山知義(1901~1977年)である。あるいはその影響があったのかもしれぬが、少なくとも日本画においては最も早い試みだったのではないだろうか。それはメタ表現に近いとも言えるだろう。
だが金猊作品中もっとも意欲的で独創性あふれる画面構成を持ち、しかも完成度も高いこの画を終生自宅に保管しながら、何故か未発表ではないかと言われており、これもこの画の謎である。もしかすると、その独創的な構成こそがはたして他人に理解されるものだろうかと金猊はいぶかしく考え、ためらったのかもしれない。あるいは制作途上(または出発)においてテーマであった未知の愛が成就して、新たな人生を歩み出したために発表の期を逸した可能性もある。さらに言えば、求愛が成就するその瞬間の記念碑のような作を二人の手元、いわば愛の巣に密やかに保持したかったのかもしれない。結果的には焼失等の難を逃れ、今日目にすることができるのは幸運だったとも言えよう。
1年後の《薫風》は《菊花讃頌》に続き図案性が高く、全体的にはエジプト壁画の影響が強く窺える。ほぼすべての登場人物──貴婦人たちと、端正な姿の馬、洋犬たち──が横向き、横顔、かつ顔も姿も図案的で、皆画面右方向へと行進する様相で構成されている。中央やや右寄りの馬上の女性だけが後ろを振り向く様に、顔を後方の左へと斜めに向けているのが印象的であり、かつ他の女性たちがすべて同じように無表情(図案的)なのに対して、ほんのりと上気したような表情なのは主人公(花嫁)なのであろう。この年に金猊は結婚している。金猊の結婚が決まった経緯を、また夫人の御顔もよくは承知していないが・・・あるいはこの画は、作者だけの裏テーマとして、それを記念して結婚の意気揚々とした晴れやかな行進と花嫁の姿を象徴的に描いたのではないだろうか。画面左側に切れた隊列の後方にはきっと花婿である自分を配するイメージで・・・モノクロ写真の印刷なのでわかりづらいが・・・行進方向右上には蓮の花が咲き乱れて、まるで極楽浄土のごとく祝福しているようだ。馬たちの足下にはやまと絵風の草と雲海のような様式表現があり、馬の足が何頭分も重なるその向こうには共鳴するかの様に──まるで鶴の足のようにも見えるが──蓮の茎であろう、リズミカルに重なって見える。馬の描写は古代中国風にも見え、やはり古今東西の美術を織り込み、テーマのみならずその構成の妙に酔いしれようかという作者の意図だろう。大作はすべて群像劇とも言えるものだが、中でもこの画は最も動きとリズム感のあるもので、その優れた画面構成から言っても《菊花讃頌》をより発展させたと言える。そこには妻を迎える喜び、華やかさ、そして薫風と題するように清新な想いを込めた様に思えてならない。また《観音圖*》では男性(おそらく自身)を描き、夫人の顔を隠すかのように描いたのに対して、ここでは花嫁らしき女性を描き男性を描かずに、描写様式も変え、配置を反転させながらも一対となる画を描いたように思える。焼失したのがなんとも残念である。
《壁畫に集ふ》もまた総勢10人の美女たちが厳かに佇みながらも、まるで乱舞するかの様に匂い立つ画面であり、思わずアングルの《トルコ風呂》やポール・デルボーの裸女たちを描いた数々の作を想起する。だが、こちらはしっかりと衣装をまとい貞淑な趣はある。しかしすべての女性たちの表情と画面から色香あふれ出る画面は二人の画家の作と共通しており、結婚の翌年のまさに女性礼賛の極みであり、このテーマによる連作の集大成とも言うべき大作ではないだろうか。画中画は洋風の額入り絵画となり、清らかに青くそびえ立つ富士山を描き、その手前に欧米風の自動車。やはり白くて豪華なドレスには菊をはじめ数々の花をあしらう。ここにも白い洋犬がおり、やはり和洋折衷の画面である。女性たちの多くはハイカラなパーマネントをかけたヘアースタイルだが、一人だけ平安絵巻に見るような黒髪であり、心なしか和風な顔立ちに見える。この時代大観は数多くの富士山を描いたが、金猊もまた時代を反映して日本の象徴として描いたのだろうか、あるいは時代を超えた象徴としてであったか。私には、国際社会において日本の強壮や権威を誇示するというよりも、この自然と女性の美しさこそが、国の美と文化的矜持なのだとして描きたかったのではないかと思われる。
その後、結婚と新婚生活により女性への憧憬と理想を現実とした金猊は、この屏風絵大作で女性像を描き尽くしたかのように、また戦争の勃発とともに、そのような大作を描く機会は失われていったように思う。
以上4作について触れたが、金猊はそれらに日本や世界の古典や習俗、現代性をも取り込みながら、果敢に新たな絵画空間へと挑戦を続けた。またやまと絵の伝統──白描画の趣もある──に基づきながらも、おそらく当時ヨーロッパから伝えられたビアズリーのイラスト等にも感化されたのだろう。デザイン性高く汚れのないフラットで完成度の高いその画面は、素朴で安直な写生に走らず、優れた題材を組み合わせたいわば高級遊戯とも言える自律した絵画への追求であったと私は考える。その美意識への強いこだわりは、少し年上の映画監督小津安二郎(1903~1963年)の、特に戦後作品の美意識とも共通するようにも思える。因みに、小津は一見平凡な家族を描き続けたために、時には時代認識に弱いとか、綺麗すぎるなどと批判されたという。だがその画面の厳粛なまでの美しさ、豊かさのその陰にはテーマへの深い洞察があり、すぐれて前衛的かつスーパーモダンであったと思う。
新奇で魅惑的な金猊の絵画世界もまたスーパーモダンであったが、第二次世界大戦前後の多くの人々の現実生活とはかけ離れたものである。高級なレトロと異国風デザイン、モダンを掛け合わせた様な未知の画面は、一般の観客たちにとって憧れではあっても敷居が高く、やや奇異な印象を与えたかもしれない。それは画壇の中心を担う日本画家や評論家たちにとっても、その力量と新しさを評価したにせよ、決定的な評価を下す前に戦渦と戦後の混乱のうちに忘れ去られていっただろうと言うことは十分に想像できる。
Ⅱ. 美術史に金猊絵画を位置付ける
上記の様に日本画史において金猊作品は他に類を見ない貴重な存在である。
その経歴とも合わせ、未だに評価は定まってはいないが、しかし一つの絵画ジャンルだけで美術史を語ってはならない。やまと絵や浮世絵、デザイン、イラスト、工芸ひいては油絵や海外の美術動向そしてマンガやアニメまでも視野において視ると、金猊は異端ではなく、美術史上において必然性を持って現われた存在であり、位置に属する。
私は以下のように、美術史上における三つの潮流から金猊を捉える。
1. やまと絵の継承
日本画の前身であるやまと絵だが、私は厳密に言えば江戸時代までの絵画はやまと絵、水墨画、仏画の三つから成ると考える。すべては中国画から派生して日本で独自の発展をとげた絵画様式である。線描と淡く美しい彩色のやまと絵とともに、モノクロで大胆、力強い水墨画、宗教絵画で装飾性強い仏画とともに三者が影響し合って発展継承を重ねてきたもので、明治以降には、それ以前の絵画をいわば総称してやまと絵と呼んだと考えても間違いではないだろう。
しかし、明治維新で欧米から導入された油画は素材、技法はもとより、そもそも民族の歴史のちがいを根底にものの見方から何から全く異質な絵画だった。和辻哲郎は昭和26年に発表した『新しい様式の創造』で「伝統の異なる他の様式が・・天啓的示唆を与えることもある・・混合ではない。新しい様式の創造である・・・美術における進歩の中核的な意義である」「日本画と洋画との・・・大きい様式的対立が、それぞれの伝統における時代的様式の対立よりも一層根本的であり・・・過去数世紀にわたる絵画の発展とは異なった解決を必要とする・・」と述べており、さらには「未だどのような様式になるか知らない」と書く。すでに明治維新から70数年を経た段階でそのように断定した慧眼に敬服する。それからおそらくはさらに70年近く経て、ようやく「日本画」という新しい様式は完成したのだ。
だがそれはやまと絵の直系ではあるが同じではない。変化への試みと葛藤の中で、少なくはない日本画家たちがやまと絵を捨てたようにも見える。長い間、画家や研究者といった専門家でさえも、日本画とやまと絵を混同して評するものが多くいるが、両者の関係と違いを冷静に見なければならない。そして明治以降、やまと絵の遺伝子=系譜は日本画にとどまらずイラスト、マンガ、アニメと多くのジャンルに拡散したのだと私は考える。
金猊と同期の東京美術学校卒業制作をみると、洋画的要素の強い写生画が多く並ぶ作品の中で一人異彩を放っている。油絵との融合ではなく、あえて言えばやまと絵にデザインや工芸の要素をより強く取り込んだ表現様式を企図したと見える(それは芸術性が低いと言うことでは絶対にない)。金猊はやまと絵の継承者として、その様式の上で新たな日本画を創ろうと果敢に試みたのだ。
2. ジャポニスム還流
金猊は卒業後に教職につき、37才からは東京美術学校工藝科講師、続いて神奈川県立神奈川工業高等学校工芸図案科(後に産業デザイン科)教諭となる。愛知県立工業学校(現在は愛知県立愛知総合工科高等学校に統合)図案科に在籍した高校時代から東京美術学校在学時を通して、すでにデザイン、工芸に関しての意識は高かったのだ。当然ヨーロッパのデザイン、工芸への見識も高かったであろうと思われる。おそらく世界初のデザイン・美術学校バウハウス(1919~1933年)はじめ、最新の情報を得ていた可能性が高い。
中でも金猊に大きな影響を与えた一つは、明治維新後にヨーロッパに紹介された浮世絵の影響によるジャポニスムではないだろうか。光と陰による表現を連綿とつないできた欧米絵画にとって、線描と明快な色面による構成は衝撃を与え、その影響下にゴッホ、モネなどの油彩画家たち(西洋近代絵画において線を発見したといわれるモディリアーニもだろう)から、やはり油彩画からイラストまで手がけたミュシャやロートレック、工芸作家のガレやルネ・ラリック、そしてイラストレーターのビアズリー(1872~1898年)らがいる。
とりわけビアズリーは、鋭い線描と明快な白黒の対比による強烈な画面で、日本の挿絵画家やイラストレーターたちに多大な影響をあたえたようだ。中でも初山滋(1897~1952年)の「船乗りシンドバット」(1921年)「西遊記」(1924年)などの初期作品には顕著に表れている。初山は色彩も含め多様な画風を駆使して童画家、挿絵画家、イラストレーターとして、極めて優れた作画を残したが、その出発点は日本画家である。やはりビアズリー風イラストを描いた水島爾(に)保(お)布(う)(1884~1958年)も東京美術学校出身日本画家であり、他にも多くのビアズリーに影響を受けた画家たちがいたのだろうと推測する。(現代では漫画家萩尾望都が、自らの作画に自覚的に取り込み優れた表現を成している。)
また当時、江戸美術の粋を明治へと引き継いだような先人河鍋暁斎(1831~1889年)の後を追うように鈴木華邨(1860~1919年)小原古邨(1877~1945年)橋口五葉(1881~1921年)小村雪岱(1887~1940年)高畠華宵(1888~1966年)や山口将吉郎(1896~1992年)岩田専太郎(1901~1974年)伊藤彦造(1904~2004年)なども日本画家あるいは日本画出身の挿絵画家たちである。そもそも浮世絵がやまと絵を出自としているからには、いわば縁戚関係であり当然とも言えよう。帝展(現日展)や院展、その後の創画会などの大型公募団体作家だけで日本画の歴史を見ては片手落ちである。
さらには浮世絵が主に版画として制作されたことが大きな意味を持つ。それは版画の性質上、肉筆による線描よりも濃淡もなく均一な線条を成し、より硬質になる特徴を有すことが、ビアズリーの線描に特徴を与えたであろうし、その影響を受けた多くの日本の作家たち同様、金猊にも決定的な啓示を与えたのではなかろうか。
3. ジャパニメーションとの近親性
ここでもう一つの啓示が閃く。それはジャポニスムがディズニーをはじめとした欧米のアニメーションに影響を与えた可能性についてである。直接的な影響は聞いたことがないが、その元を探ればジャポニスムによるおもにイラストによる線描表現が、間接的ではあろうともやがて20世紀に入り映像の世紀に現われたアニメーションに影響を少なからず与えたのではないかと、ひいき目かもしれないが私は考える。それは現代の先端を走る映像作家集団「チームラボ」がその画を油絵ではなく日本画に求めたということとも共通する。動かしていくためには線を中心によりシンプルな図画が求められるからであるし、そもそも線で描くというのは原初の絵画なのである。
そうして私は、金猊がビアズリーを始めジャポニスムとその還流(逆輸入と言うべきか)画家たちの影響とともに、アニメーションの影響もあったのではないかと思いつき、少し検索をすると・・・
「日本では当時続々と輸入されていた日本国外の短編アニメ映画の人気を受けて、それらに先立つ1917年に初めてアニメ作品が制作された(下川凹天、幸内純一、北山清太郎の3人の作品が別々に公開)。但し当時は数分間の短編アニメーションだった」とある。なんと予想外に早く大正時代には、アニメ上映が日本でも始まっていたのだ。その後、ディズニー設立が1920年代始め、「白雪姫」大ヒットが1937年、日本のアニメでは詩情あふれる「くもとちゅうりっぷ」(1943年)や高い技術的達成度を持つ「桃太郎海の神兵」(1945年)が現われ、東映動画(アニメーション)設立が戦後1947年とのこと。そして日本のマンガがディズニーアニメの影響を受けて、革命的に変貌するのは戦後の青年手塚治虫からである。
現在のマンガやアニメーションとの直接的関係はなくとも、金猊が当時アニメーションを鑑賞し、強い影響を受けた可能性は充分にある・・・とここで、編者の丸井隆人氏より、金猊は「丸井金猊作画第一回個人展覧会」(1936年開催予定とされていたが実際に開催されたか不明)趣意書で<詩と造形美術と音楽との有機的な完全な結合と昇華による特殊新型式──「第四藝術」──の創成は尤も大なる宿題として吾人将来の努力発明に嘱されているのであります。>と書いているとの指摘を受けた。これは映画にとどまらずアニメーションを指しているのではないか。おそらくこの時点で金猊は、アニメーション上映を観ており、非常に評価していたのだろう。やはり近親性は高いといえる。
今や日本のアニメやマンガはジャパニメーションと呼ばれ、世界中を席巻している。だがアニメ、マンガはサブカルチャーとして、芸術=ハイアートとは区別されてきた。それは浮世絵がかつてそのように扱われてきたことと符号する。
その概念を打破した作家たちの中心に村上隆がいる。いわゆるアニメおたく的な村上は、東京藝術大学大学院日本画科にて初の博士課程満期修了者となり、その後、マンガアニメ的キャラクターを創造するなど、国内での評価の枠を外れて、ハイアートでもある現代アートの世界に打って出た。欧米で自らの作品を「スーパーフラット」と名付け理論武装して、工房を率いて圧倒的な制作量及び高い完成度と行動力を持って評価を⾼めてきたのだ。あるオークションでは彼の立体作品が運慶の新発見の仏像をも上回る値を付けて売買されたこともある。彼は初期の講演会(三鷹市美術ギャラリー)で「現在の日本画はもう終わった(廃れていく)。私のアートこそが日本画の伝統を真に受け継いでいる」旨の発言をしている。
「スーパーフラット」という言葉、概念が村上一人で終わるか、それとも美術史に定着していくのかどうかはわからない。けれども私は、彼の戦略とともにこの命名は言い得て妙と考える。
この言葉は単純に超平面性と言うにとどまらず(そのような絵画は古来数多く存在する)、具象画(や立体)が多いにもかかわらず、現実感を重視せずに記号や落書きのような表現をも含め平面に徹した描写であり、現代的な視点を要したアートを指すと捉えるべきではないだろうか。ジャパニメーションとハイアートを合体させるための優れて的確な命名ではないかと考えるからだ。それこそが本来村上が最も企図したことである。
やまと絵は、線描中心で平面性が強いとは言え、そこまで線や面をドライに虚構に徹して遊ぶ、あるいは表現することはあまり無かった。立体感や肉体等の質感や生命感などその表現には油画に劣らず(表現手法は違えども)、リアリズムを基礎にしていたのである。雪舟などの水墨画はもとより「鳥獣人物戯画」「源氏物語絵巻」などの絵巻物や宗達などの琳派、近世では渡辺崋山の画などを観ても一目瞭然である。だがアニメーションは動きをなめらかにするために、また表情をわかりやすく伝えるために、時には目を異様なまでに大きく描いたり、指を4本にしたり、関節が無いかのごとくまるでゴム管のような手足の人体を描く。より虚構性が強く自由であり、アニメならではの表現様式が生まれたと言える。現代マンガの祖、手塚治虫がデビューしたときに、当時の漫画界の大御所たちから「デッサンがなっていない。このような漫画が流行っては困る」と言われたというのはそういうことだろう。(だが私が想うに、⼿塚の絵はその初期に最も魅⼒がある)
ジャパニメーションは、おそらくその大きな源流の一つであろうやまと絵から見れば、表現技法は異端であり、極北ともいえる。だからこそ毛嫌いする人もいれば、今や世界的に時に「おたく」とも呼ばれる熱狂的なファンも数多くいるのではないか。そして現代では村上と同じような性格を持つ作家が同時多発的に現われ、今も続いている。村上と同時期に世界的に評価され始めた奈良美智がおり、続いて東京藝大油画科出身の会田誠、山口晃は明らかに日本画あるいはやまと絵技法を用いて表現する。イラストレーターとして名高い天明屋尚、日本画家でもあろう町田久美もそのような表現をする画家である。彼らは線を中心に徹底的に平面の虚構性に立脚した表現をする。
もちろん村上の工房にもそのような作家志望者が大勢いるのではないかと想像するし、他にも大勢の若手から中堅作家たちがいるのだろう。自らそのように自称することはないだろうが、私が思うには彼らも含めて「スーパーフラット」の作家たちと呼んで良いのではないか。彼らの多くは村上も含めて絵画だけで表現しているのではない。それは現代アートの特徴の一つでもある。その現実を見ても私の(おそらくは村上自身が)言わんとする「スーパーフラット」の概念が妥当ではないかと考える。
Ⅲ.「スーパーフラット」の先駆け──早すぎた画家
金猊が代表作を輩出したのは1930年代であり、ジャポニスムおよびアニメーションの影響を間違いなく受けていたであろう。だがその後「スーパーフラット」の作家たちが現われる1990年代始めに先駆けて、半世紀以上早く彼は「スーパーフラット」作品を描いたのだと、私は考える。金猊の先見性である。金猊の残した文章に目を通すと、古今の文化芸術(絵画・デザイン・彫刻・工芸含め)への造詣が深く、時代の流行に合わせるのではなく、高邁な理念、理想を持って作画に専心しようとしていたのがわかる。もしも戦争がなければ、あるいは生涯を通して唯一無二の創作世界を完遂していたかもしれない。
また金猊の残した夫人への恋文には赤裸々なまでに愛情と情熱あふれる文が綴られている。多くの画に女性への憧憬を描き、百済観音にはその最高、理想を観たのではなかろうか。孤高の志と女性をはじめ人間への深く強い愛情を抱いた作家は、学友杉山寧らとの親しき交友も永く続き、ご家族や多くの教え子達(の証言によっても推測されるよう)に慕われ、戦後家族を守り、学生たちへの指導へと情熱を傾け、晩年再び筆をとりつつその生を終えたのだと私には思えてならない。戦後日本画壇の寵児となった杉山は親友の才を惜しむかのように、晩年まで個展開催をと働きかけており、金猊も応えようとしたのであろう。
金猊はやまと絵をその芸術の母体=元型としつつ、若き日に当時先端の美術として輸入されたビアズリーのイラストを筆頭にヨーロッパのデザイン・工芸と、やはり最先端の商業美術であったアニメーションに啓示を受けて、新たな「日本画」を企図した。
だが、明治維新、敗戦と二度の国家的危機を迎えた日本は欧米化へと舵を切っていた。文化においても同様である。洋画が輸入され日本独自の洋画への模索がはじまり、やまと絵は洋画を取り込み新しい絵画様式「日本画」を築く、誰しもこの一世紀半はその荒波から逃げることはできなかったのだ。そしてようやく現在、その過程で違う可能性を求め続けた画家たちへの再評価が始まっている。金猊の作品はすべて残されているのではない。優れた独自の世界を展開していたがやりきってはいないだろうとも思う。だが金猊の歩みは、この国の美術史その過度期において一つの方向性を示し、重要な位置をなした。
私は日本の現代美術史のミッシングリンクとして「やまと絵の系譜」を挙げたいが、それを開く最初の鍵を金猊は持っていたのではないだろうか。彼が描きれなかった未来=可能性も含めて、現代の私たちは金猊を顕彰すべきと考える。
Ⅳ.「やまと絵の系譜」──現代日本美術史編纂と補完 への提起
上記の通り私は「スーパーフラット」の定義とともに、「やまと絵の系譜」をと提起した。その意図を少々掘り下げる。明治以降の日本現代美術史を個別ではなく俯瞰した総合的視点での編纂を望みたい。あらゆる歴史を見るときに最も困難なのは現代史であろうが、現代の美術界を見渡すと表現手段が飛躍的に広がり、それに伴い個別の趣味、文化が多様化し、細分化している。それ故に俯瞰的に美術、アートを捉えるのが難しい。従来のジャンルごとに実力作家たちを列挙するだけでは全貌が見えないのはこの国だけにとどまらない。このような時代だからこそジャンルを横断する、あるいはそれを無化する現代アートが登場したようにも想える。とはいえ現代美術史全貌把握のための処方箋と言おうか、視座が必要と考える。
私はその重要な一つとして現代日本美術史の中に「やまと絵の系譜」を挿入するよう提唱する。長い時を要しながらも「日本画」は洋画技法を取り込み、表現技法の広がりに大きな成果をあげた。福田平八郎、奥村土牛、高山辰雄、毛利武彦、麻田鷹司、烏頭尾精らの極めて優れた絵画はそれ無しには生まれることはなかっただろう。
江戸期まではおそらくいなかったであろう。「厚塗り」にはそれらの要素も含める。
そうして現在の若手日本画家たちには油絵へのコンプレックスなど微塵もなく、薄塗りや線描重視の先祖帰りしたような画も多く見受けられ、さらにはジャパニメーション的日本画を屈託なく描いている作家も多い。 そのような昨今を観るにつけ、千数百年に及ぶやまと絵の線描中心で平面性の強い画の遺伝子が、現代の私たちにも脈々と受け継がれている思いがする。ならば、今こそ「やまと絵の系譜」の視座から、日本画、油画、イラスト、マンガ、アニメ、現代アートと言ったジャンル分けではなく総合的美術史を構築すべき時が来たのではないかと私は考える。
先に挙げた人たち以外にも、思いつくまま挙げれば・・・
・マンガ:横山隆一、清水崑、小島功、小島剛夕、水木しげる、白土三平、つげよしはる、
長谷川町子、秋竜山、石ノ森章太郎、松本零士、ちばてつや、楳図かずお、
水野英子、池上遼一、丸尾末広、諸星大二郎、⾕⼝ジロー、モンキーパンチ、
竹宮恵子、⼭岸凉⼦、いしいひさいち、能條純一、⼤友克洋、鳥山明、江口寿史、
高橋留美子、山本直樹、浦沢直樹、今市子、松本大洋、井上雄彦
・アニメ:久里洋二、天野喜孝、宮崎駿、安彦良和、金田伊功、今敏、山村浩二、庵野秀明
・イラスト:竹久夢二、柳原良平、宇野亞喜良、伊坂芳太良、熊田千佳慕、いわさきちひろ、山藤章二、
和田誠、米倉斎加年、長新太、黒田征太郎、村上豊、空山基、山田章博、中村祐介
・絵画:藤⽥嗣治、小出楢重、熊谷守一、靉光、平賀敬、横尾忠則、司修、粟津潔、田名網敬一
・版画:川瀬巴水、恩地孝四郎、棟方志功、浜口陽三、長谷川潔、池田満寿夫
・現代アート&アールブリュット:草間彌生、魲(すずき)万里絵、束芋
・・・等 さらに枚挙に暇なく、そうそうたる作家たちが名を連ねるだろう。それは極めて日本的かつ豊かな系譜になるに違いなく、世界へ発信するに足ると確信する。
今回、企画展への取り組みの一環として、和辻哲郎『古寺巡礼』を読み合わせしたが、美術家ではない和辻がいかほどに鋭く仏像たちを見つめ的確に批評しているか、なぜあの時代にあの若さであれほど世界的な基準をもって判断できたのか、驚嘆するしかない。おそらく金猊だけではなく当時の美術好きな若者たちにとってのバイブル的な書であったであろう。今も学ぶところ多き実に優れた美術評論である。
存命の評論家 辻惟雄は、俯瞰的視点で美術史に新たなページを開いた。「奇想の系譜」では忘れかけられていた画家たちの再評価の契機をなした。とりわけ伊藤若冲、曾我蕭白、岩佐又兵衛というこの国の美術史に燦然と輝く巨星たちを世に出したのは最大の功績である。(又兵衛に関してはまだまだ社会的認知度は低いが)
今こそ明治以降1世紀半をフラットな視座で生き生きと描き、私たちの目を洗うような評論を読みたいし、それを企画する美術館、キュレーターの出現を請いたいと願ってならない。
Ⅴ. あとがきに代えて──2026年秋の企画展へむけて そして・・・
私は絵画の世界に入り、半世紀に及ぶ。今思えば戦後の匂いを色濃く残した北海道の山間地に育ち、無教養なまま18歳にして上京し絵画の世界へと足を踏み込んだ。高度成長時代をむかえ競争が激しさを増す中、絵画とは、日本画とは何かもわからず、「ただ良い絵を描きたい。日本画かどうかなど関係ない」と気のおもむくままに厚塗り日本画を描き、美大を出てからはしゃにむに展覧会に足を運んだ。そうしてやまと絵や仏像などの古典の魅力に触れ、画材から教わることも増え、一方では他ジャンル、特に現代アートから多くの気づきを得た。古典も日本画も現代アートもサブカルチャーもすべて地続きである。
そのように私は美術家、また日本画家として遅々とした歩みながらも制作を重ね、近年は美術評エッセイを偶に書き、簡素ながらも日本画の考察、研究も重ねてきた。
そうして縁あってこの度、故 丸井金猊顕彰の企画展に携わることになった。
金猊と《観音圖*》に敬意を払い、奈良の古典への敬意を汲み取り、素晴らしい仏像たちと現代の地蔵を重ね合わせ、また最も重要なイコンともいえる「百済観音像」からは日本の国造りの頃まで続いていたであろう女性崇拝を、古墳と自然に重ね合わせて表現を試みたい。国が形成される時代の大陸や半島とのつながり、信仰や美術がいかに伝播し、風土と融け合い、花開き現代のわれわれとつながっているのか。
そこへと挑戦した貴重な先人の一人 画家金猊の功績をどのように解釈し引き継いでいくのか、私なりに企画者 丸井隆人と画家 溝口泰信との打ち合わせと考察、時には相克をも重ねて、意義ある表現を試みたい。それは金猊の遺志にも叶うのではないかと確信している。
私の画は掛け軸4幅連作で、全幅のタイトルは
とする。
最後に、この試論ノートは丸井金猊顕彰の一滴となるよう、以下の要点を中心に記しました。金猊評価には、美術史を整備せざるを得ないとの結論に至った故に他なりません。
- 金猊作品 への評価
- 「やまと絵」 「日本画」 「スーパーフラット」 の定義
- 「やまと絵の系譜」 論考と確立への提唱
中にはすでに定説と言えるものもあるでしょうし、疑問反論の声も多々あるかと思います。はなはだ論考粗く、論証わずかで心許ないものですが、しかし検討に値する重要な提起であると信じます。
これからも丸井隆人氏はじめご遺族や関係者また多くの方々から、拙文への事実誤認の指摘やご意見もいただければ幸いです。
さらには もしも叶うならば、研究者の方で共感してくださる方がいらっしゃれば、ぜひとも本格的に論じていただきたいと切に願います。
美術作品名は《括弧》で囲み、タイトル不明で遺族による仮題の作品にはアスタリスク * を付けています。
本来は遺族がまとめるべき要素も多く含まれながら、遺族では到底書き得ない着眼と筆致による論考大作となりました。心より感謝申し上げます。おそらく金猊も泉下でニヤリとしていることでしょう。
☞相澤哲也『金猊試論ノート』ver3.7[高解像度版PDF: 10.1MB/16ページ]