丸井金猊

KINGEI MARUI

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1997年 その周辺の人たち展文集

神工時代の丸井金猊先生
小川久夫(神工 工芸図案科 1期生)

昭和23年春、神奈川工業高校における工芸科は、戦後復活第一期の年であった。工芸科長が新しく着任、教壇に立たれたのが丸井先生であった。
開口一番、「四角い顔ですが、マルイです‥‥」と先生の挨拶が始まったのだが‥‥。

未だ終戦ボケの抜けきれない我々新入生は、一瞬その洒落が解らず全員がキョトンとしていた無反応ぶりに先生はどう思われたのであろうか? 50年を経た今も気になるところである。
黒縁の眼鏡にやさしく光る眼、きちんと髭を剃り込んだ顎の青さが清潔感に溢れ、そのお顔は今もはっきり網膜に焼付けられている。そしていつもキチンとスーツに身を包み、折り目正しく教鞭を執られ、その一方、軽妙洒脱なお人柄がそのまま授業内容に反映されて行った。

授業中によく「洒落くさい」という表現を使われたが、気さくな言い方ながら、その中に対象物に向けて几帳面な、厳しい視点を持っておられたと思う。その頃の神工はまだ戦災後の荒涼とした土地の上に仮校舎が建ったばかりといった有様で、洒落っ気どころか、教材も何も無い状況であった。

他の先生方を引き合いに出しては申し訳ないが、ほとんどの方が姿もあまりパッとせず、我々学生たちもヤボの集団であった‥‥と思う。その中でお一人、言葉通り洒落くさい先生は未だ神奈川県の一角で学校全体が質実剛健の気風を残したままの空気の中、これからの工芸科の生徒たちをどうやって育てて行くか‥‥おそらく日夜悩まれたに相違無く、やりにくい場面も多々あったと思われる。

しかし、私たちも丸井先生もこの科が好きで、デザイン・造形の勉強をしたいという一点では全く一致していたのである。先行きは新生日本の構築にデザイン・造形活動の分野でその一翼を担うのだとばかり、目標を高く掲げて日々研鑽を重ねて行った。

それもアッと思う間に一年がたち、二期生が入って来る、次は三期生と言うように、丸井先生、同期生との3年間は夢のように過ぎ去り、卒業生はそれぞれに実社会という海へ飛び込んで泳ぎ始めたのであるが、私たちは大波に揉まれながらもあまり恐れを感じず、権威におもねず、自信を失わずにそれぞれに泳ぎきってきたのだが、これも丸井先生に基礎の基礎をみっちり叩き込まれたおかげであったと私は思う。にも拘わらず、先生ご存命中には何も御恩に報ゆることも無く現在に至ってしまったのであるが、此の度、先生のお孫さんである隆人君が「丸井金猊とその周辺の人たち」展を企画された由、私たちにとっても望外の喜びであり、この機会にぜひ、展示作品を前にして自分の心の内なるものを先生の御霊にあらためて捧げたいと思うのである。

丸井金猊とその周辺の人たち展文集に寄稿された神奈川県立神奈川工業高校 工芸図案科第2期生 小川久夫さんのメッセージ。「謹厳な容姿の丸井金猊先生の授業は、楷書体を見るような気品があり、明晰な日常の訓話は諭すよう懇切で」といった言葉が綴られる。

2011年 芸工展「丸井金猊 祝!神工百周年展」にも出品予定だったが、同年1月に金猊と同じ心筋梗塞で急逝され、同展参加は奥様のご希望と同級生の桑島堅司氏のご協力により実現。上記テキストとプロフィールは1997年「丸井金猊とその周辺の人たち」展のときのものを掲載。